コラム:井波の今昔あれこれ

文化財復元と井波彫刻師~名古屋城本丸御殿復元プロジェクトから

文化財復元と井波彫刻師~名古屋城本丸御殿復元プロジェクトから

絢爛豪華、金箔に鮮やかな彩色を施した煌びやかな花鳥がのびやかに舞うその様はまるで極楽浄土。この欄間が設置されている名古屋城本丸御殿は、江戸時代に徳川将軍の宿館として建てられ、城郭建築の最高傑作として国宝第一号に指定されたが、第二次世界大戦の戦災で天守閣とともに焼失した。戦後、「二度と燃えたり、壊れたりしないように」という祈りを込めて始まった名古屋城の再建プロジェクトの中で、2009年から2018年という9年の工期をかけて、豊富な歴史資料と伝統技法に基づき、木造で復元された。 この本丸御殿の中で上洛殿と名付けられた部屋にある欄間彫刻の数々は、実は井波の彫刻師たちが復元を手掛けたもの。どのような経緯で井波が名古屋城本丸御殿の復元という歴史的大事業に携わったのか。そして復元に必要な技術とは何か。最後の彫刻師集団ともいえる井波だからこそ成し得た大規模復元プロジェクトについて、当時の井波彫刻協同組合理事長として井波彫刻師たちを束ねるリーダーを務めた岩倉綾泉氏から話を伺った。 岩倉 綾泉(本名:岩倉 雅美)昭和27年旧井波町生まれ。父 岩倉勘宰に師事。深彫り、籠彫り、細密彫刻を得意とし神社仏閣、屋台彫刻、欄間、置物彫刻等を制作。日展、元現代工芸美術家協会員、元井波彫刻協同組合理事長、元井波彫刻伝統工芸士会会長などを歴任。令和3年に卓越技能者「現代の名工」に選ばれる。 名古屋城本丸御殿復元プロジェクト 経緯 当時、井波彫刻は新たな取組の必要に迫られていた。 かつて井波といえば欄間彫刻というほどに、全国津々浦々から欄間彫刻の注文を受けてきたものだが、住環境の変化等に伴い、欄間の需要は激減。少子化の煽りを受けて「天神様」(富山県では子供が生まれると祖父母から孫へ菅原道真公の像を送る習慣がある)の需要も減少。新しい商品づくりに知恵を絞る日々だった。 そうした中で、名古屋城本丸御殿にかつて飾られていた欄間彫刻の復元の話が入ってきたという。これまで井波では個々の彫刻師が復元等の依頼を受けることはあったが、井波彫刻協同組合としては初めての大型案件であった。井波彫刻協同組合は通常2年で役員が交代する組織だが、この案件を遂行するために制作の音頭をとる役員を交代させず任期を延長させた異例の案件でもあった。 このようにイレギュラーな案件ではあったものの、自分達にしかできない新しい取組だと考え、迷わず手を挙げた。 復元作業 依頼されたのは、7枚の欄間彫刻。サイズは幅9尺(270㎝)×高さ4尺(120㎝)、厚みは8寸から1尺(12㎝~30cm)。 制作の第一歩は図案を起こすところからだ。通常、井波彫刻では依頼主からの要望に合わせて図案化する。依頼主は多くの彫刻師の中から自分好みの作風の彫刻師へ依頼するため、彫刻師は各々のセンスで表現することが求められる。図案は紙に筆で描き出したのち、図案に合わせて選んだ木材に転写し、彫刻していく。 しかし今回の依頼は焼失した建物の復元事業の一環であるため、公益財団法人文化財建造物保存技術協会(以下「文建協」)が定めた工法と材料に従う必要があった。具体的には、枠も中の彫刻もヒノキを使用することが指定されていた。復元制作になるため個々のオリジナルではなく、元々この場にあったものをそっくり再現せねばならない。 参考資料は、戦前に撮影された数百枚ものモノクロ写真。同じ欄間彫刻でもさまざまな角度から撮られており、光の当たり方やカメラの位置によって細部の見え方が異なる。そのため、平面図に落とし込むにあたり、写真を丹念に読み解きながら、構造や彫りの深さを慎重に推察し、図案化を進めていった。 最初に取りかかったのは鶏が鼓に乗った『諫鼓鶏(かんこどり)』のサンプル制作である。この図案には自然の花鳥に加えて鼓という人工物が含まれているため、写真の撮影角度によって解釈が分かれやすいと考え、文建協との考察の方向性をすり合わせる対象として適していると判断した。 諫鼓鶏(かんこどり)完成写真 岩倉氏はこのプロジェクトを「井波だからこそ実現できた」と語る。他に類を見ないほど彫刻師が軒を連ねる井波では、限られた工期の中でも高度な制作が可能だった。1枚の欄間に対し、荒彫りは裏表に3~4人ずつ、仕上げにはさらに3~4人、仕上がった部材の最終調整にも2人が加わり、合計10名体制で進められた。 このような大規模な分業体制も、長年にわたり技術を磨いてきた彫刻師たちが多数いる井波ならではの強みであり、井波が名古屋城本丸御殿の復元チームに選ばれた理由の一つである。なぜなら、今はもうこのように彫刻師の集団がいる地域というのが井波をおいて他にないためだ。 完成した欄間彫刻は、文建協と名古屋市から委託された建設会社のコンソーシアムによって確認され、その後名古屋市の承認を経て、京都で彩色が施され、最終的な取り付け作業に入った。この取り付け作業もまた、彫刻師10人がかりで1週間を要する大仕事となった。完成したばかりの周囲を傷つけないよう、細心の注意を払っての作業だった。 名古屋城の一件から始まり、大規模な文化財関連の依頼としては小石川後楽園の彫刻も井波に白羽の矢が立った。この名古屋城本丸御殿における復元事業は、全国に類を見ない彫刻師集団として井波の名が知られることとなる良いきっかけになった。 文化財修復・復元と井波の技術 「文化財に関する依頼で求められていることは技術であり井波彫刻ではない」と岩倉氏は語る。 先にも述べた通り、通常、井波彫刻は依頼主の要望を受けて己のセンスで表現することが求められるが、文化財は元々あったものをそっくりそのままのとおり再現することが求められている。復元とは、検証しながら「当時あったであろうもの」を再現することであり、修復とは当時の職人の手や産地の作り方、技術に合わせて再現することである。その地域ごとにそれぞれ異なる彫り方で作られたものを、残された古写真から丹念に読み取り、文建協等の専門家との調整を重ねて忠実に再現し、作り上げる。 今、岩倉氏はこの名古屋城の復元における一連のことをもとに、後継者のために復元の流れや作業などのノウハウをまとめたものを残しておく必要があると考えている。冊子なのか、映像なのかはまだ決めかねているが、何かしらの媒体で残したいという。 本丸御殿上洛殿の欄間 この「普段とは異なる技法を再現」できる能力は、まるで木から彫り出したとは思えない精緻な彫刻技術を磨き上げ継承し続けてきた井波の彫刻師だからこそ持ちうる技術なのではないだろうか。 アートは自由な創作活動だが、高度な技術を求められるものを作り上げるには相応の技術が要る。たとえば紙と鉛筆さえあれば誰でも絵を描くことはできるが、複雑なものを正確に描くには基礎のデッサンができてこそであるし、そこから様々な表現技法を会得していくからだ。キュビズムで有名なパブロ・ピカソが実はとてつもないデッサン力の持ち主であるように。 そしてこのような大がかりなものを作り上げるには技術だけでなくチームワークが欠かせない。修行時代から互いに切磋琢磨してきた職人たちが組んで一致団結したからこそ、このような大規模かつ高度な技術を要するプロジェクトを成功させることができたのではないだろうか。...

文化財復元と井波彫刻師~名古屋城本丸御殿復元プロジェクトから

絢爛豪華、金箔に鮮やかな彩色を施した煌びやかな花鳥がのびやかに舞うその様はまるで極楽浄土。この欄間が設置されている名古屋城本丸御殿は、江戸時代に徳川将軍の宿館として建てられ、城郭建築の最高傑作として国宝第一号に指定されたが、第二次世界大戦の戦災で天守閣とともに焼失した。戦後、「二度と燃えたり、壊れたりしないように」という祈りを込めて始まった名古屋城の再建プロジェクトの中で、2009年から2018年という9年の工期をかけて、豊富な歴史資料と伝統技法に基づき、木造で復元された。 この本丸御殿の中で上洛殿と名付けられた部屋にある欄間彫刻の数々は、実は井波の彫刻師たちが復元を手掛けたもの。どのような経緯で井波が名古屋城本丸御殿の復元という歴史的大事業に携わったのか。そして復元に必要な技術とは何か。最後の彫刻師集団ともいえる井波だからこそ成し得た大規模復元プロジェクトについて、当時の井波彫刻協同組合理事長として井波彫刻師たちを束ねるリーダーを務めた岩倉綾泉氏から話を伺った。 岩倉 綾泉(本名:岩倉 雅美)昭和27年旧井波町生まれ。父 岩倉勘宰に師事。深彫り、籠彫り、細密彫刻を得意とし神社仏閣、屋台彫刻、欄間、置物彫刻等を制作。日展、元現代工芸美術家協会員、元井波彫刻協同組合理事長、元井波彫刻伝統工芸士会会長などを歴任。令和3年に卓越技能者「現代の名工」に選ばれる。 名古屋城本丸御殿復元プロジェクト 経緯 当時、井波彫刻は新たな取組の必要に迫られていた。 かつて井波といえば欄間彫刻というほどに、全国津々浦々から欄間彫刻の注文を受けてきたものだが、住環境の変化等に伴い、欄間の需要は激減。少子化の煽りを受けて「天神様」(富山県では子供が生まれると祖父母から孫へ菅原道真公の像を送る習慣がある)の需要も減少。新しい商品づくりに知恵を絞る日々だった。 そうした中で、名古屋城本丸御殿にかつて飾られていた欄間彫刻の復元の話が入ってきたという。これまで井波では個々の彫刻師が復元等の依頼を受けることはあったが、井波彫刻協同組合としては初めての大型案件であった。井波彫刻協同組合は通常2年で役員が交代する組織だが、この案件を遂行するために制作の音頭をとる役員を交代させず任期を延長させた異例の案件でもあった。 このようにイレギュラーな案件ではあったものの、自分達にしかできない新しい取組だと考え、迷わず手を挙げた。 復元作業 依頼されたのは、7枚の欄間彫刻。サイズは幅9尺(270㎝)×高さ4尺(120㎝)、厚みは8寸から1尺(12㎝~30cm)。 制作の第一歩は図案を起こすところからだ。通常、井波彫刻では依頼主からの要望に合わせて図案化する。依頼主は多くの彫刻師の中から自分好みの作風の彫刻師へ依頼するため、彫刻師は各々のセンスで表現することが求められる。図案は紙に筆で描き出したのち、図案に合わせて選んだ木材に転写し、彫刻していく。 しかし今回の依頼は焼失した建物の復元事業の一環であるため、公益財団法人文化財建造物保存技術協会(以下「文建協」)が定めた工法と材料に従う必要があった。具体的には、枠も中の彫刻もヒノキを使用することが指定されていた。復元制作になるため個々のオリジナルではなく、元々この場にあったものをそっくり再現せねばならない。 参考資料は、戦前に撮影された数百枚ものモノクロ写真。同じ欄間彫刻でもさまざまな角度から撮られており、光の当たり方やカメラの位置によって細部の見え方が異なる。そのため、平面図に落とし込むにあたり、写真を丹念に読み解きながら、構造や彫りの深さを慎重に推察し、図案化を進めていった。 最初に取りかかったのは鶏が鼓に乗った『諫鼓鶏(かんこどり)』のサンプル制作である。この図案には自然の花鳥に加えて鼓という人工物が含まれているため、写真の撮影角度によって解釈が分かれやすいと考え、文建協との考察の方向性をすり合わせる対象として適していると判断した。 諫鼓鶏(かんこどり)完成写真 岩倉氏はこのプロジェクトを「井波だからこそ実現できた」と語る。他に類を見ないほど彫刻師が軒を連ねる井波では、限られた工期の中でも高度な制作が可能だった。1枚の欄間に対し、荒彫りは裏表に3~4人ずつ、仕上げにはさらに3~4人、仕上がった部材の最終調整にも2人が加わり、合計10名体制で進められた。 このような大規模な分業体制も、長年にわたり技術を磨いてきた彫刻師たちが多数いる井波ならではの強みであり、井波が名古屋城本丸御殿の復元チームに選ばれた理由の一つである。なぜなら、今はもうこのように彫刻師の集団がいる地域というのが井波をおいて他にないためだ。 完成した欄間彫刻は、文建協と名古屋市から委託された建設会社のコンソーシアムによって確認され、その後名古屋市の承認を経て、京都で彩色が施され、最終的な取り付け作業に入った。この取り付け作業もまた、彫刻師10人がかりで1週間を要する大仕事となった。完成したばかりの周囲を傷つけないよう、細心の注意を払っての作業だった。 名古屋城の一件から始まり、大規模な文化財関連の依頼としては小石川後楽園の彫刻も井波に白羽の矢が立った。この名古屋城本丸御殿における復元事業は、全国に類を見ない彫刻師集団として井波の名が知られることとなる良いきっかけになった。 文化財修復・復元と井波の技術 「文化財に関する依頼で求められていることは技術であり井波彫刻ではない」と岩倉氏は語る。 先にも述べた通り、通常、井波彫刻は依頼主の要望を受けて己のセンスで表現することが求められるが、文化財は元々あったものをそっくりそのままのとおり再現することが求められている。復元とは、検証しながら「当時あったであろうもの」を再現することであり、修復とは当時の職人の手や産地の作り方、技術に合わせて再現することである。その地域ごとにそれぞれ異なる彫り方で作られたものを、残された古写真から丹念に読み取り、文建協等の専門家との調整を重ねて忠実に再現し、作り上げる。 今、岩倉氏はこの名古屋城の復元における一連のことをもとに、後継者のために復元の流れや作業などのノウハウをまとめたものを残しておく必要があると考えている。冊子なのか、映像なのかはまだ決めかねているが、何かしらの媒体で残したいという。 本丸御殿上洛殿の欄間 この「普段とは異なる技法を再現」できる能力は、まるで木から彫り出したとは思えない精緻な彫刻技術を磨き上げ継承し続けてきた井波の彫刻師だからこそ持ちうる技術なのではないだろうか。 アートは自由な創作活動だが、高度な技術を求められるものを作り上げるには相応の技術が要る。たとえば紙と鉛筆さえあれば誰でも絵を描くことはできるが、複雑なものを正確に描くには基礎のデッサンができてこそであるし、そこから様々な表現技法を会得していくからだ。キュビズムで有名なパブロ・ピカソが実はとてつもないデッサン力の持ち主であるように。 そしてこのような大がかりなものを作り上げるには技術だけでなくチームワークが欠かせない。修行時代から互いに切磋琢磨してきた職人たちが組んで一致団結したからこそ、このような大規模かつ高度な技術を要するプロジェクトを成功させることができたのではないだろうか。...

元祖国民的アイドル!?聖徳太子とIPビジネスの先駆け「太子伝会」

元祖国民的アイドル!?聖徳太子とIPビジネスの先駆け「太子伝会」

聖徳太子(厩戸王)はかつての一万円札にもなり、日本史上、最も愛され続けた元祖「国民的アイドル」とも言える存在です。そんな太子への信仰が、富山県南砺市井波の地で脈々と受け継がれていることをご存じでしょうか。井波では、毎年7月下旬に「太子伝会(たいしでんえ)」が開催され、9日間にわたって聖徳太子の一生と教えを説く「絵解き法要」が、始まりから300年経った今もなお続いています。 綽如上人と後小松天皇が結んだ縁 瑞泉寺に伝わる由緒では、太子伝会の起源は1387年に遡ります。本願寺5代綽如上人が宮中の後小松天皇の前で聖徳太子の講話を行った際、その功績を讃えた天皇から、聖徳太子の生涯を描いた八幅の掛け軸(絵伝)と、2歳の聖徳太子像「南無仏太子」を賜ったことから始まります。 この宝物の授与は、単なる褒美以上に、瑞泉寺と朝廷との深い結びつきを示すものであり、太子信仰を伝える寺としての大きな権威付けにもなりました。現在、日本全国でこの八幅揃いの太子絵伝を所蔵するのは、奈良県の橘寺(聖徳太子生誕の地)、兵庫県の鶴林寺、そして井波の瑞泉寺の3ヶ所となっています。 民衆の心を掴んだ浄土真宗と太子信仰 これらの宝物が瑞泉寺に伝わると、貴重な絵伝を虫干し※する際に「絵解き」のような催しが行われるようになったと考えられます。 ※宝物を湿気やカビ、虫害から守るために、風通しの良いところに干す行事のこと。 平安時代から中世にかけて、日本の仏教は天台宗や真言宗など既存の宗派を中心に広く展開していましたが、鎌倉時代になると、社会の変化を背景に法然、親鸞、日蓮らによる新しい仏教運動が広がっていきます。 そのなかで、聖徳太子への信仰もさまざまな形で受け継がれました。特に浄土真宗においては、親鸞自身が聖徳太子を深く敬い、弥陀如来への道を示してくれた「先達」として位置づけています。 聖徳太子は「国家の基礎」を築いた人物として、民衆にとっても親しみやすく、かつカリスマ的な存在でした。こうした分かりやすい太子信仰は、浄土真宗の教えを人々に伝えていくうえでも大きな役割を果たしたと考えられます。少しニュアンスは異なりますが、現代的な視点で見れば、「広告塔」や「インフルエンサー」にも似た側面があったと言えるかもしれません。 井波では瑞泉寺創建以前から太子信仰が存在していたとする説があります。おそらく瑞泉寺でも、聖徳太子の事績をこの絵伝で分かりやすく説明することで、浄土真宗の思想を着実に広めていったのではないでしょうか。 職人文化への展開と職人の結束を支えた「太子講」 この民衆レベルでの太子信仰の浸透が土台となって、建築関係の職人たちの間で聖徳太子が「工匠の祖」として特別視される文化が生まれました。聖徳太子が法隆寺や四天王寺の建立で「諸職を定めた」という伝承は、職人たちにとって自分たちの技術と社会的地位の正統性を支える重要なよりどころとなったのです。 中世末期から始まったとされる「太子講」は、この流れの自然な発展形でした。聖徳太子を讃仰する宗教的な集まりであると同時に、建築関係の職人たちの結束や交流を支える場としての機能も果たし、毎年太子の忌日に墨壺や曲尺といった大工道具を太子像の前に並べて祈願する習慣が広がっていきます。 井波彫刻は、1763年の瑞泉寺火災後の再建で京都から派遣された御用彫刻師から、地元職人が技術を伝授されたことで始まりましたが、この太子信仰が単なる技術習得を超えた精神的支柱の一端となり、今日まで継承・発展する基盤を築いていったのではないでしょうか。 江戸時代に花開いた「太子伝会」 太子伝会が現在のような形に発展したのは江戸時代初期(1710年頃)のことです。特に瑞泉寺第12代住職「真照(俳号:桃化)」の卓越した語りの技術により、太子伝会は一気に盛り上がりを見せます。 各地から参詣者が押し寄せるようになると、八日町周辺には露店が立ち並び、旅籠屋や芝居役者や芸妓も集まる一大イベントとなりました。 これは現代のエンターテインメント産業にも通じる現象で、宗教的な内容でありながら、聖徳太子という象徴的な存在と「絵解き」という物語体験が、人々を強く惹きつける「コンテンツ」としての価値を持っていたことを示しています。 現代の「IPビジネス」にも通じる太子信仰の展開 注目すべきは、瑞泉寺の太子信仰が「太子伝会」の場だけに留まらず、地域の外へと広がっていったことです。 明治期になると、僧侶が2歳の聖徳太子像「お太子さん」と共に富山県内はもちろん、石川県、福井県へ巡回し、太子の物語を語って回るようになります。当時、瑞泉寺は失火で焼失した伽藍再建のために資金難に陥っており、この巡回によって寄せられたお布施が、その後の再建や寺院運営を支える重要な資金となっていたことが、会計記録にも残されています。 もちろん、当時の人々が現代的な意味で「IPビジネス」を意識していたわけではありません。しかし、現代の視点から眺めてみると、聖徳太子という広く知られた存在と、希少な八幅絵伝や太子像、そして「絵解き」という物語体験を組み合わせ、地域を越えて人を集め、信仰を広げながら寺院の維持にもつなげていった仕組みには、現在のIP活用やコンテンツビジネスにも通じるものがあります。 瑞泉寺は、太子信仰の重要な拠点としての存在感を高めると同時に、巡回や絵解きを通じて寺院の再建・維持を支えていきました。信仰を伝えることと、寺院を持続させること。その二つが結びついていた点は、現代の文化事業やコンテンツビジネスを考えるうえでも、非常に興味深い事例と言えるのではないでしょうか。 未来へ繋ぐ希少な文化遺産 井波の太子伝会は、太子信仰の地域への浸透、職人文化との結びつき、そして巡回による地域外への展開という一連の流れによって、奇跡的に継承されてきた希少な文化的遺産です。 綽如上人と後小松天皇の縁から生まれた太子信仰の伝統は、時代ごとにその形を変えながら発展し、現代の井波の職人文化にも脈々と受け継がれています。 現在も井波には多くの木彫刻職人が住み、「世界一の木彫りの町」を形成しています。瑞泉寺の周辺を散策すれば、この井波の地に凝縮されている歴史や信仰と、それを継承してきた人々の誇りに触れることができます。きっとそれは、日本の精神文化の豊かさを実感できる、かけがえのない体験となるはずです。 毎年7月下旬は、ぜひ太子伝会へ足を運んでみませんか?

元祖国民的アイドル!?聖徳太子とIPビジネスの先駆け「太子伝会」

聖徳太子(厩戸王)はかつての一万円札にもなり、日本史上、最も愛され続けた元祖「国民的アイドル」とも言える存在です。そんな太子への信仰が、富山県南砺市井波の地で脈々と受け継がれていることをご存じでしょうか。井波では、毎年7月下旬に「太子伝会(たいしでんえ)」が開催され、9日間にわたって聖徳太子の一生と教えを説く「絵解き法要」が、始まりから300年経った今もなお続いています。 綽如上人と後小松天皇が結んだ縁 瑞泉寺に伝わる由緒では、太子伝会の起源は1387年に遡ります。本願寺5代綽如上人が宮中の後小松天皇の前で聖徳太子の講話を行った際、その功績を讃えた天皇から、聖徳太子の生涯を描いた八幅の掛け軸(絵伝)と、2歳の聖徳太子像「南無仏太子」を賜ったことから始まります。 この宝物の授与は、単なる褒美以上に、瑞泉寺と朝廷との深い結びつきを示すものであり、太子信仰を伝える寺としての大きな権威付けにもなりました。現在、日本全国でこの八幅揃いの太子絵伝を所蔵するのは、奈良県の橘寺(聖徳太子生誕の地)、兵庫県の鶴林寺、そして井波の瑞泉寺の3ヶ所となっています。 民衆の心を掴んだ浄土真宗と太子信仰 これらの宝物が瑞泉寺に伝わると、貴重な絵伝を虫干し※する際に「絵解き」のような催しが行われるようになったと考えられます。 ※宝物を湿気やカビ、虫害から守るために、風通しの良いところに干す行事のこと。 平安時代から中世にかけて、日本の仏教は天台宗や真言宗など既存の宗派を中心に広く展開していましたが、鎌倉時代になると、社会の変化を背景に法然、親鸞、日蓮らによる新しい仏教運動が広がっていきます。 そのなかで、聖徳太子への信仰もさまざまな形で受け継がれました。特に浄土真宗においては、親鸞自身が聖徳太子を深く敬い、弥陀如来への道を示してくれた「先達」として位置づけています。 聖徳太子は「国家の基礎」を築いた人物として、民衆にとっても親しみやすく、かつカリスマ的な存在でした。こうした分かりやすい太子信仰は、浄土真宗の教えを人々に伝えていくうえでも大きな役割を果たしたと考えられます。少しニュアンスは異なりますが、現代的な視点で見れば、「広告塔」や「インフルエンサー」にも似た側面があったと言えるかもしれません。 井波では瑞泉寺創建以前から太子信仰が存在していたとする説があります。おそらく瑞泉寺でも、聖徳太子の事績をこの絵伝で分かりやすく説明することで、浄土真宗の思想を着実に広めていったのではないでしょうか。 職人文化への展開と職人の結束を支えた「太子講」 この民衆レベルでの太子信仰の浸透が土台となって、建築関係の職人たちの間で聖徳太子が「工匠の祖」として特別視される文化が生まれました。聖徳太子が法隆寺や四天王寺の建立で「諸職を定めた」という伝承は、職人たちにとって自分たちの技術と社会的地位の正統性を支える重要なよりどころとなったのです。 中世末期から始まったとされる「太子講」は、この流れの自然な発展形でした。聖徳太子を讃仰する宗教的な集まりであると同時に、建築関係の職人たちの結束や交流を支える場としての機能も果たし、毎年太子の忌日に墨壺や曲尺といった大工道具を太子像の前に並べて祈願する習慣が広がっていきます。 井波彫刻は、1763年の瑞泉寺火災後の再建で京都から派遣された御用彫刻師から、地元職人が技術を伝授されたことで始まりましたが、この太子信仰が単なる技術習得を超えた精神的支柱の一端となり、今日まで継承・発展する基盤を築いていったのではないでしょうか。 江戸時代に花開いた「太子伝会」 太子伝会が現在のような形に発展したのは江戸時代初期(1710年頃)のことです。特に瑞泉寺第12代住職「真照(俳号:桃化)」の卓越した語りの技術により、太子伝会は一気に盛り上がりを見せます。 各地から参詣者が押し寄せるようになると、八日町周辺には露店が立ち並び、旅籠屋や芝居役者や芸妓も集まる一大イベントとなりました。 これは現代のエンターテインメント産業にも通じる現象で、宗教的な内容でありながら、聖徳太子という象徴的な存在と「絵解き」という物語体験が、人々を強く惹きつける「コンテンツ」としての価値を持っていたことを示しています。 現代の「IPビジネス」にも通じる太子信仰の展開 注目すべきは、瑞泉寺の太子信仰が「太子伝会」の場だけに留まらず、地域の外へと広がっていったことです。 明治期になると、僧侶が2歳の聖徳太子像「お太子さん」と共に富山県内はもちろん、石川県、福井県へ巡回し、太子の物語を語って回るようになります。当時、瑞泉寺は失火で焼失した伽藍再建のために資金難に陥っており、この巡回によって寄せられたお布施が、その後の再建や寺院運営を支える重要な資金となっていたことが、会計記録にも残されています。 もちろん、当時の人々が現代的な意味で「IPビジネス」を意識していたわけではありません。しかし、現代の視点から眺めてみると、聖徳太子という広く知られた存在と、希少な八幅絵伝や太子像、そして「絵解き」という物語体験を組み合わせ、地域を越えて人を集め、信仰を広げながら寺院の維持にもつなげていった仕組みには、現在のIP活用やコンテンツビジネスにも通じるものがあります。 瑞泉寺は、太子信仰の重要な拠点としての存在感を高めると同時に、巡回や絵解きを通じて寺院の再建・維持を支えていきました。信仰を伝えることと、寺院を持続させること。その二つが結びついていた点は、現代の文化事業やコンテンツビジネスを考えるうえでも、非常に興味深い事例と言えるのではないでしょうか。 未来へ繋ぐ希少な文化遺産 井波の太子伝会は、太子信仰の地域への浸透、職人文化との結びつき、そして巡回による地域外への展開という一連の流れによって、奇跡的に継承されてきた希少な文化的遺産です。 綽如上人と後小松天皇の縁から生まれた太子信仰の伝統は、時代ごとにその形を変えながら発展し、現代の井波の職人文化にも脈々と受け継がれています。 現在も井波には多くの木彫刻職人が住み、「世界一の木彫りの町」を形成しています。瑞泉寺の周辺を散策すれば、この井波の地に凝縮されている歴史や信仰と、それを継承してきた人々の誇りに触れることができます。きっとそれは、日本の精神文化の豊かさを実感できる、かけがえのない体験となるはずです。 毎年7月下旬は、ぜひ太子伝会へ足を運んでみませんか?

遼遠の境に赴く- 瑞泉寺ものがたり1

遼遠の境に赴く- 瑞泉寺ものがたり1

室町時代の井波に響いた錫杖の音。それは都から遥かな越中の地へと赴いた一人の僧侶のものだった。その名は綽如。彼の足跡をたどりながら、瑞泉寺創建の物語を史実と伝承を織り交ぜて紐解いてみたい。※本シリーズでは、全4回を通じて、瑞泉寺創建から現代に至るまでの歴史の流れを物語として描いていく。 時は室町、三代将軍義満の世 室町時代が始まって間もない14世紀末、京の都では足利義満が絶頂期を迎えていた。南北朝の争いに終止符を打ち、明国との貿易で富を蓄え、金閣を建てて北山文化を花開かせた義満。その治世の安定は、仏教界にも新たな展開をもたらしていた。 この頃、浄土真宗本願寺では綽如という一人の僧が頭角を現していた。 伝承によれば、綽如は1350年の生まれで、義満の正室となる日野業子の実家である名門・日野家に預けられた。業子とは幼い頃から親しく、また義満の片腕として活躍した斯波義将とも同い年だったという。真偽のほどは定かではないが、少なくとも綽如が時の権力者たちと密接な関係にあったことは間違いないようだ。 越中への道 越中国は当時、美濃から続く北陸道の要衝であった。足利義満はこの地の安定を重視し、室町幕府の有力守護大名である斯波氏を越中守護に任じた。斯波義将は、1379年から1397年まで管領を務めた実力者であり、越中・越前・若狭・能登の四カ国を支配する大大名でもあった。 伝承では、越中には南朝の残党勢力が根強く残っており、後醍醐天皇の皇子である恒良親王や、美濃から逃れてきた斎藤氏らが桃井氏を頼って砺波地方に潜伏していたとされる。義満はこれらの勢力を懐柔するため、武力だけでなく宗教的な影響力も必要と考え、綽如に白羽の矢を立てたとする説もある。 井波という土地 綽如が向かった井波は、決して布教に適した場所ではなかった。この地域は古くから天台宗と真言宗の勢力圏で、当時この地にあった止観寺やその末寺、さらには高瀬神社近くの専勝寺など、既存の宗教勢力が強固な基盤を築いていた。新興の浄土真宗が割って入る余地は、ほとんど見当たらなかった。 それでも綽如が井波に足を向けることができたのは、やはり斯波義将の後ろ盾があったからだろう。武力による平定だけでは民心の安定は得られない。宗教的な調停者として、綽如の存在は欠かせなかったのである。 綽如は「遼遠の境に赴く」という言葉を残したと伝えられている。遙か遠い辺境の地への覚悟を込めた、印象深い表現だ。彼はまず杉谷に小さな庵を結び、地元の人々との和睦交渉に当たったという。 勧進状という希望 転機が訪れたのは1386年のことだった。義満から重要な使命を託された綽如は、一時京都に戻ることになる。伝承によれば、明国からの国書の解読を依頼され、博識な綽如はこれを難なく解読し、機転の利いた返答までしたという。 この時、綽如が手にしたものは大きなものだった。それは「勧進状」と呼ばれる文書である。これは義満の支配下にある六ヶ国(越前、越中、飛騨、信濃、加賀、能登)の豪族たちから、寺院建立のための資金を集めることを許可するものだった。当時は後小松天皇の治世。義満が南北朝統一のために擁立し、巧みに操っていた天皇である。 この勧進状こそが、瑞泉寺創建への道筋を開いたのだった。 井波での9年間 興味深いことに、綽如は1384年に井波に下向してから、1393年に逝去するまでの9年間、目立った布教活動を行わなかったと伝えられている。これは一見不可解に思えるが、当時の既存の宗教勢力との摩擦を避け、地域に溶け込むことを最優先にしたのだろう。 急激な変化は反発を招く。綽如は長い時間をかけて信頼関係を築き、真の意味での宗教的基盤を固めていったのかもしれない。この忍耐強い姿勢こそが、後の瑞泉寺の繁栄につながったと考えるのは、いささか強引だろうか。 物語の始まりと謎 そうして1390年、越中国井波の地に瑞泉寺が創建された。これは確実な史実である。創建者が綽如であることも、複数の史料が一致して伝えている。 だが、綽如上人の生涯には悲劇的な最期が待っていた。創建から3年後の1393年4月24日、綽如は44歳の若さで逝去した。病弱であったため病没が定説とされているが、まことしやかに伝えられている説がある。南朝勢力残党の平定という政治的使命を帯びていたために、その南朝支持者によって井栗谷で惨殺されたというのだ。 さらに奇妙なことに、綽如の死後、瑞泉寺は45年間という長期にわたって無住職の状態が続いた。なぜこれほど長い間、後継者が置かれなかったのか。病死か暗殺か、そして長期無住職の理由。これらの謎は瑞泉寺の歴史に深い陰影を落としている。 史実と伝承の交錯 瑞泉寺の創建に至る物語は、史実と伝承が巧みに織り交ざった興味深いものだ。足利義満との関係、日野業子や斯波義将とのつながり、南朝勢力との確執、そして地元宗教勢力との調和。これらの要素が絡み合って、一つの大きな物語を形作っている。 すべてが事実とは言えないかもしれない。しかし、そこには確実に一つの真実がある。それは、一人の僧侶が「遼遠の境」に向かい、新たな宗教的拠点を築き上げたことである。 この瑞泉寺こそが、後の時代に井波を北陸浄土真宗の中心地へと押し上げ、さらには一向一揆の重要な拠点となり、そして現在に至るまで続く井波彫刻の礎となったのである。 綽如上人が杉谷の庵で見上げた夜空に、どんな思いを託したのだろうか。遙か遠い都への郷愁か、それとも新天地への希望か。答えは知る由もないが、彼の蒔いた種は確実に芽吹き、やがて大きな花を咲かせることになるのである。 (瑞泉寺ものがたり2へ続く)

遼遠の境に赴く- 瑞泉寺ものがたり1

室町時代の井波に響いた錫杖の音。それは都から遥かな越中の地へと赴いた一人の僧侶のものだった。その名は綽如。彼の足跡をたどりながら、瑞泉寺創建の物語を史実と伝承を織り交ぜて紐解いてみたい。※本シリーズでは、全4回を通じて、瑞泉寺創建から現代に至るまでの歴史の流れを物語として描いていく。 時は室町、三代将軍義満の世 室町時代が始まって間もない14世紀末、京の都では足利義満が絶頂期を迎えていた。南北朝の争いに終止符を打ち、明国との貿易で富を蓄え、金閣を建てて北山文化を花開かせた義満。その治世の安定は、仏教界にも新たな展開をもたらしていた。 この頃、浄土真宗本願寺では綽如という一人の僧が頭角を現していた。 伝承によれば、綽如は1350年の生まれで、義満の正室となる日野業子の実家である名門・日野家に預けられた。業子とは幼い頃から親しく、また義満の片腕として活躍した斯波義将とも同い年だったという。真偽のほどは定かではないが、少なくとも綽如が時の権力者たちと密接な関係にあったことは間違いないようだ。 越中への道 越中国は当時、美濃から続く北陸道の要衝であった。足利義満はこの地の安定を重視し、室町幕府の有力守護大名である斯波氏を越中守護に任じた。斯波義将は、1379年から1397年まで管領を務めた実力者であり、越中・越前・若狭・能登の四カ国を支配する大大名でもあった。 伝承では、越中には南朝の残党勢力が根強く残っており、後醍醐天皇の皇子である恒良親王や、美濃から逃れてきた斎藤氏らが桃井氏を頼って砺波地方に潜伏していたとされる。義満はこれらの勢力を懐柔するため、武力だけでなく宗教的な影響力も必要と考え、綽如に白羽の矢を立てたとする説もある。 井波という土地 綽如が向かった井波は、決して布教に適した場所ではなかった。この地域は古くから天台宗と真言宗の勢力圏で、当時この地にあった止観寺やその末寺、さらには高瀬神社近くの専勝寺など、既存の宗教勢力が強固な基盤を築いていた。新興の浄土真宗が割って入る余地は、ほとんど見当たらなかった。 それでも綽如が井波に足を向けることができたのは、やはり斯波義将の後ろ盾があったからだろう。武力による平定だけでは民心の安定は得られない。宗教的な調停者として、綽如の存在は欠かせなかったのである。 綽如は「遼遠の境に赴く」という言葉を残したと伝えられている。遙か遠い辺境の地への覚悟を込めた、印象深い表現だ。彼はまず杉谷に小さな庵を結び、地元の人々との和睦交渉に当たったという。 勧進状という希望 転機が訪れたのは1386年のことだった。義満から重要な使命を託された綽如は、一時京都に戻ることになる。伝承によれば、明国からの国書の解読を依頼され、博識な綽如はこれを難なく解読し、機転の利いた返答までしたという。 この時、綽如が手にしたものは大きなものだった。それは「勧進状」と呼ばれる文書である。これは義満の支配下にある六ヶ国(越前、越中、飛騨、信濃、加賀、能登)の豪族たちから、寺院建立のための資金を集めることを許可するものだった。当時は後小松天皇の治世。義満が南北朝統一のために擁立し、巧みに操っていた天皇である。 この勧進状こそが、瑞泉寺創建への道筋を開いたのだった。 井波での9年間 興味深いことに、綽如は1384年に井波に下向してから、1393年に逝去するまでの9年間、目立った布教活動を行わなかったと伝えられている。これは一見不可解に思えるが、当時の既存の宗教勢力との摩擦を避け、地域に溶け込むことを最優先にしたのだろう。 急激な変化は反発を招く。綽如は長い時間をかけて信頼関係を築き、真の意味での宗教的基盤を固めていったのかもしれない。この忍耐強い姿勢こそが、後の瑞泉寺の繁栄につながったと考えるのは、いささか強引だろうか。 物語の始まりと謎 そうして1390年、越中国井波の地に瑞泉寺が創建された。これは確実な史実である。創建者が綽如であることも、複数の史料が一致して伝えている。 だが、綽如上人の生涯には悲劇的な最期が待っていた。創建から3年後の1393年4月24日、綽如は44歳の若さで逝去した。病弱であったため病没が定説とされているが、まことしやかに伝えられている説がある。南朝勢力残党の平定という政治的使命を帯びていたために、その南朝支持者によって井栗谷で惨殺されたというのだ。 さらに奇妙なことに、綽如の死後、瑞泉寺は45年間という長期にわたって無住職の状態が続いた。なぜこれほど長い間、後継者が置かれなかったのか。病死か暗殺か、そして長期無住職の理由。これらの謎は瑞泉寺の歴史に深い陰影を落としている。 史実と伝承の交錯 瑞泉寺の創建に至る物語は、史実と伝承が巧みに織り交ざった興味深いものだ。足利義満との関係、日野業子や斯波義将とのつながり、南朝勢力との確執、そして地元宗教勢力との調和。これらの要素が絡み合って、一つの大きな物語を形作っている。 すべてが事実とは言えないかもしれない。しかし、そこには確実に一つの真実がある。それは、一人の僧侶が「遼遠の境」に向かい、新たな宗教的拠点を築き上げたことである。 この瑞泉寺こそが、後の時代に井波を北陸浄土真宗の中心地へと押し上げ、さらには一向一揆の重要な拠点となり、そして現在に至るまで続く井波彫刻の礎となったのである。 綽如上人が杉谷の庵で見上げた夜空に、どんな思いを託したのだろうか。遙か遠い都への郷愁か、それとも新天地への希望か。答えは知る由もないが、彼の蒔いた種は確実に芽吹き、やがて大きな花を咲かせることになるのである。 (瑞泉寺ものがたり2へ続く)

5月5日、「こどもの日」と「端午の節句」

5月5日、「こどもの日」と「端午の節句」

皆さんは「こどもの日」と「端午の節句」の違いを知っていますか? この二つはしばしば同義と捉えられがちですが、実際には異なる背景を持つ行事なのです。 「こどもの日」は国民の祝日であり、1948年に制定されました。 一方、「端午の節句」は古代中国に起源を持ち、日本では奈良時代から行われている古い行事のことを指します。 つまり、「こどもの日」は祝日としての現代的な概念、「端午の節句」は伝統的な年中行事という違いがあります。 なぜ「端午の節句」というのか?ですが、「端」は初め、「午」は旧暦の5月を意味し、「節句」は季節の変わり目に行われる日本の伝統的な行事のことです。 「午(ご)」という音と「五(ご)」という音が同じであることから、5月5日に定着したと言われています。 五月人形を飾る理由  日本で五月人形を飾る文化が庶民にまで広まったのは江戸時代。男の子の成長と健康を願い、厄除けの意味合いを込めて飾られるようになりました。 また、当時は「勝負」という言葉とかけて菖蒲が厄除けに使われていました。このほかにも、こいのぼりを飾る、菖蒲湯に入る、柏餅やちまきを食べるなどの風習があります。 五月人形には主に兜飾り、鎧飾り、武者人形の3種類があります。その中でも兜は、鎧の中でも最も重要な部分である頭を守るため、生命を守る象徴として、特に初節句に選ばれることが多いです。 井波彫刻の木の兜の紹介 兜と言われると、ずっしりと大きいものをイメージする人も多いかと思いますが、井波では木彫りの小ぶりな兜が作られています。 井波彫刻は、250年以上の歴史を持つ富山県南砺市井波の伝統工芸品で、職人が一つひとつ丁寧に手彫りすることで生まれる木の温かさが魅力です。材料にはクスノキが使われることが多く、使えば使うほど艶と深みが増していきます。 井波彫刻の兜は、美しい木目や細やかな装飾が裏側や細部にまで見られます。特に「吹き返し」や「錣(しころ)」は注目して欲しいポイント。小ぶりなサイズ感のため、狭いスペースにも飾りやすく作られています。 お子様の健やかな成長を願う「端午の節句」に、日本文化に触れるきっかけとして、お飾りしてみてはいかがでしょうか。 井波彫刻の兜はこちら

5月5日、「こどもの日」と「端午の節句」

皆さんは「こどもの日」と「端午の節句」の違いを知っていますか? この二つはしばしば同義と捉えられがちですが、実際には異なる背景を持つ行事なのです。 「こどもの日」は国民の祝日であり、1948年に制定されました。 一方、「端午の節句」は古代中国に起源を持ち、日本では奈良時代から行われている古い行事のことを指します。 つまり、「こどもの日」は祝日としての現代的な概念、「端午の節句」は伝統的な年中行事という違いがあります。 なぜ「端午の節句」というのか?ですが、「端」は初め、「午」は旧暦の5月を意味し、「節句」は季節の変わり目に行われる日本の伝統的な行事のことです。 「午(ご)」という音と「五(ご)」という音が同じであることから、5月5日に定着したと言われています。 五月人形を飾る理由  日本で五月人形を飾る文化が庶民にまで広まったのは江戸時代。男の子の成長と健康を願い、厄除けの意味合いを込めて飾られるようになりました。 また、当時は「勝負」という言葉とかけて菖蒲が厄除けに使われていました。このほかにも、こいのぼりを飾る、菖蒲湯に入る、柏餅やちまきを食べるなどの風習があります。 五月人形には主に兜飾り、鎧飾り、武者人形の3種類があります。その中でも兜は、鎧の中でも最も重要な部分である頭を守るため、生命を守る象徴として、特に初節句に選ばれることが多いです。 井波彫刻の木の兜の紹介 兜と言われると、ずっしりと大きいものをイメージする人も多いかと思いますが、井波では木彫りの小ぶりな兜が作られています。 井波彫刻は、250年以上の歴史を持つ富山県南砺市井波の伝統工芸品で、職人が一つひとつ丁寧に手彫りすることで生まれる木の温かさが魅力です。材料にはクスノキが使われることが多く、使えば使うほど艶と深みが増していきます。 井波彫刻の兜は、美しい木目や細やかな装飾が裏側や細部にまで見られます。特に「吹き返し」や「錣(しころ)」は注目して欲しいポイント。小ぶりなサイズ感のため、狭いスペースにも飾りやすく作られています。 お子様の健やかな成長を願う「端午の節句」に、日本文化に触れるきっかけとして、お飾りしてみてはいかがでしょうか。 井波彫刻の兜はこちら

職人ひとすじに、時代とともに・井波彫刻師 高桑良昭

職人ひとすじに、時代とともに・井波彫刻師 高桑良昭

木のあたたかみを生かしながらも洗練されたシンプルなフォルムの作品が多い高桑氏。シンプルでありながらしっかりと彫られ作り込まれた作品は、50年以上真剣に木と向き合ってきた中で磨き上げられたもの。最近は小さな可愛らしいピンバッジなど木彫刻の新たな商品づくりにも取り組んでいる。 職人として生きる 父の背中を見て育ち、自然とそのまま彫刻師になったという高桑氏。 高校卒業後は日展作家でもあった堀友二氏に師事した。日本美術工芸展や日展にも出品し入選するなど、工芸作家としても活躍した。 現在は展覧会への出品をやめているが、それは自身は作家ではなく職人だという意識もあり、「自分の方向性とは違うような気がした」からだという。 井波彫刻の良いところを「技術」「きちっと仕事ができるところ」と表す高桑氏。 商品となる小物類ひとつを取っても、同じものはひとつひとつ、すべて寸分たがわぬ仕上がりだ。素人からすると機械を使わずに、それも彫刻で全く同じものを手作業でいくつも作るなんてことは神業のように思えるが、それも「親方のを見ていくつも同じものを作ってきたから」と高桑氏にとっては特別なことではないという。 工房には… 寡黙でいわゆる昔ながらの職人気質の人、という印象がある高桑氏だが、「鳥第一主義やから」と2羽のインコ、めいちゃんとあーちゃんと工房で過ごす様子はほっこりしてしまう。 基本的に部屋の中で放し飼いにしているそうで、時折カップに入ったコーヒーを飲みに来るのだとか…まるで絵本の世界のよう! そんなエピソードを交えて小鳥たちのことを楽しそうに語る姿がとても印象的だった。 時代の感覚を持って 「将来的には井波彫刻の彫刻師は減っていくと思うが、時代時代のその感覚を持って新しいことに挑戦していければ乗り越えられると思う」と静かに語る高桑氏。 獅子頭や天神様、鯉など伝統的な縁起物を数多く手掛けてきたが、そうした伝統的なモチーフを用いた新しい商品づくりにも意欲的に取り組み、井波彫刻らしさはそのままに、新しいかたちで日々に寄り添う商品を作り続ける。 新しい試み ―木彫刻のピンバッジや帯留めは今までになかった新しいものですね。なぜ作ろうと思ったのでしょうか。富山県のお寿司のピンバッジ(非売品※2025年1月時点)も素敵でした。 時代が変わってきたので新しいものをやってみようと思い、中でも身に着けられるものがあるといいかなと思って作りました。昔と違って決まったものの需要があるわけではないですし。 寿司のピンバッジは県からの依頼があって作りました。富山県が寿司で県のPRに力を入れているので、それで。今のところ販売はしていませんが、東京のお寿司屋さんからも問い合わせがありましたね。 ―現在販売している帯留め、ピンバッジのモチーフは獅子頭と雲ですが、なぜそれらを選ばれたのですか。 井波らしいモチーフにしようと思って選びました。獅子頭は今まで多く手掛けてきましたから得意なモチーフでもあります。獅子頭モチーフの小物はこれから種類を増やそうと思っています。 ―今後挑戦したいことや目標等についてお聞かせください。 自分で良いなと思ったものを時代に合うように考えるのは楽しいから、それをやっていきたいですね。 高桑良昭氏の代表作、ミニ獅子を仕上げている様子。 高桑良昭氏の仕事風景。細かな仕事も素早く丁寧。 高桑良昭氏の大切な家族、インコのあーちゃん。

職人ひとすじに、時代とともに・井波彫刻師 高桑良昭

木のあたたかみを生かしながらも洗練されたシンプルなフォルムの作品が多い高桑氏。シンプルでありながらしっかりと彫られ作り込まれた作品は、50年以上真剣に木と向き合ってきた中で磨き上げられたもの。最近は小さな可愛らしいピンバッジなど木彫刻の新たな商品づくりにも取り組んでいる。 職人として生きる 父の背中を見て育ち、自然とそのまま彫刻師になったという高桑氏。 高校卒業後は日展作家でもあった堀友二氏に師事した。日本美術工芸展や日展にも出品し入選するなど、工芸作家としても活躍した。 現在は展覧会への出品をやめているが、それは自身は作家ではなく職人だという意識もあり、「自分の方向性とは違うような気がした」からだという。 井波彫刻の良いところを「技術」「きちっと仕事ができるところ」と表す高桑氏。 商品となる小物類ひとつを取っても、同じものはひとつひとつ、すべて寸分たがわぬ仕上がりだ。素人からすると機械を使わずに、それも彫刻で全く同じものを手作業でいくつも作るなんてことは神業のように思えるが、それも「親方のを見ていくつも同じものを作ってきたから」と高桑氏にとっては特別なことではないという。 工房には… 寡黙でいわゆる昔ながらの職人気質の人、という印象がある高桑氏だが、「鳥第一主義やから」と2羽のインコ、めいちゃんとあーちゃんと工房で過ごす様子はほっこりしてしまう。 基本的に部屋の中で放し飼いにしているそうで、時折カップに入ったコーヒーを飲みに来るのだとか…まるで絵本の世界のよう! そんなエピソードを交えて小鳥たちのことを楽しそうに語る姿がとても印象的だった。 時代の感覚を持って 「将来的には井波彫刻の彫刻師は減っていくと思うが、時代時代のその感覚を持って新しいことに挑戦していければ乗り越えられると思う」と静かに語る高桑氏。 獅子頭や天神様、鯉など伝統的な縁起物を数多く手掛けてきたが、そうした伝統的なモチーフを用いた新しい商品づくりにも意欲的に取り組み、井波彫刻らしさはそのままに、新しいかたちで日々に寄り添う商品を作り続ける。 新しい試み ―木彫刻のピンバッジや帯留めは今までになかった新しいものですね。なぜ作ろうと思ったのでしょうか。富山県のお寿司のピンバッジ(非売品※2025年1月時点)も素敵でした。 時代が変わってきたので新しいものをやってみようと思い、中でも身に着けられるものがあるといいかなと思って作りました。昔と違って決まったものの需要があるわけではないですし。 寿司のピンバッジは県からの依頼があって作りました。富山県が寿司で県のPRに力を入れているので、それで。今のところ販売はしていませんが、東京のお寿司屋さんからも問い合わせがありましたね。 ―現在販売している帯留め、ピンバッジのモチーフは獅子頭と雲ですが、なぜそれらを選ばれたのですか。 井波らしいモチーフにしようと思って選びました。獅子頭は今まで多く手掛けてきましたから得意なモチーフでもあります。獅子頭モチーフの小物はこれから種類を増やそうと思っています。 ―今後挑戦したいことや目標等についてお聞かせください。 自分で良いなと思ったものを時代に合うように考えるのは楽しいから、それをやっていきたいですね。 高桑良昭氏の代表作、ミニ獅子を仕上げている様子。 高桑良昭氏の仕事風景。細かな仕事も素早く丁寧。 高桑良昭氏の大切な家族、インコのあーちゃん。

芸術と工芸を行き来して・井波彫刻師 野村清宝

芸術と工芸を行き来して・井波彫刻師 野村清宝

職人でありながら、作家でもある。工芸も芸術も学んだからこそ持つ視点で、伝統的な作品から現代アートまで様々な作品を制作する野村氏。目から鱗の「井波彫刻とは」「伝統工芸と芸術品の違い」もまた軽妙な語り口で楽しくわかりやすく教えてくれた。 芸術を学び工芸をする 代々彫刻師の家系に生まれ育ち、疑うこともなく彫刻師になったという野村氏。高校卒業後は金沢美術工芸大学に進学し、彫刻を専攻。「自分達の時代にはできなかった、芸術の基礎を学んできてほしい」という父の願いもあり、進学したという。 在学中に19歳で日展に初入選。その後も日彫展にも出品し入選するなど、在学中から華々しく活躍した。 大学卒業後に井波へ戻り、現代の名工でもある父のもとで修行し、彫刻師となった。 現在は、朝起きたら彫刻師として18時くらいまで作品を制作し、また夜になれば今度は彫刻作家としての作品を制作する日々を送っている。 双方を行き来して 彫刻師として作るものは、主に社寺彫刻や欄間。彫刻作家として作るものは人物の塑像が中心だ。彫刻師として天神様などの人物像も作るが、作家として作る人物像は全く趣が異なる。 伝統的な技法で作られた作品の数々と現代的な塑像作品とが並ぶ工房は、木彫刻の今と昔が交差する空間のようだ。 素人目には井波彫刻も芸術品のように思われるが、井波彫刻は伝統工芸であり、純粋芸術とは違うと野村氏は言う。見られる技術の違いもあるが、一番大きな違いは「模倣を是とするか否か」。 伝統工芸は、模倣を否定しない。むしろ決められたことを守り、同じものを早く綺麗に作ることができると腕がいいとされるが、純粋芸術の世界でそれはNGだ。 しかし、思い描いたものを作ろうとしたときにはやはり技術がないとできない。 そうしたときに井波で伝統的に培われた技術が生き、さらに各々のオリジナリティを乗せることで羽ばたいていけるのではないか。そう、野村氏は語った。 「両方やっているから両方の良さがわかるし、双方を行き来しながら互いの良さを応用することができる」 彫刻師としての思い 井波彫刻について ―野村さんの今後やってみたいことや目標について教えていただけますか。 欄間の受注をずっとやってきましたが、欄間は今需要が落ちているから、この技術を生かして何か欄間のような目玉になるようなものを開発していかないとと思いますね。それが井波彫刻の今の課題だと思います。 それと、井波は名古屋城や首里城のような文化財の復元の需要がありますが、それは彫刻師の集団が井波にしかいないからということはもちろん、欄間で培った技術があるから。 ただし、今は若い人は修業時代から欄間を教わっていなかったり、欄間をやっていない人も多い。教えられる人が存命なのでまだ今なら若い人に教えられる、伝承できる。 でも10年後はどうなっているかわからないから、今が大事な時期ではないかと思います。自分らが欄間をやってきた最後の世代だから、そういうことも必要だと思いますね。 作り手としての哲学 ―野村さんが彫刻を作る際に大切にしていることについて教えていただけますか。 接したお客さんに喜んでもらえるものをつくること。それがすべてですね。 ―人生で大事にしていることも教えてください。 慣れないこと。慣れが一番ダメなことだと思います。これがこうだからこうなってしまうよね、という感覚でやらないこと。常に初心で。これを戒めにしています。 井波彫刻師・野村光雄氏の工房に並ぶ欄間。工房に並ぶ欄間の数々が職人技を物語る。

芸術と工芸を行き来して・井波彫刻師 野村清宝

職人でありながら、作家でもある。工芸も芸術も学んだからこそ持つ視点で、伝統的な作品から現代アートまで様々な作品を制作する野村氏。目から鱗の「井波彫刻とは」「伝統工芸と芸術品の違い」もまた軽妙な語り口で楽しくわかりやすく教えてくれた。 芸術を学び工芸をする 代々彫刻師の家系に生まれ育ち、疑うこともなく彫刻師になったという野村氏。高校卒業後は金沢美術工芸大学に進学し、彫刻を専攻。「自分達の時代にはできなかった、芸術の基礎を学んできてほしい」という父の願いもあり、進学したという。 在学中に19歳で日展に初入選。その後も日彫展にも出品し入選するなど、在学中から華々しく活躍した。 大学卒業後に井波へ戻り、現代の名工でもある父のもとで修行し、彫刻師となった。 現在は、朝起きたら彫刻師として18時くらいまで作品を制作し、また夜になれば今度は彫刻作家としての作品を制作する日々を送っている。 双方を行き来して 彫刻師として作るものは、主に社寺彫刻や欄間。彫刻作家として作るものは人物の塑像が中心だ。彫刻師として天神様などの人物像も作るが、作家として作る人物像は全く趣が異なる。 伝統的な技法で作られた作品の数々と現代的な塑像作品とが並ぶ工房は、木彫刻の今と昔が交差する空間のようだ。 素人目には井波彫刻も芸術品のように思われるが、井波彫刻は伝統工芸であり、純粋芸術とは違うと野村氏は言う。見られる技術の違いもあるが、一番大きな違いは「模倣を是とするか否か」。 伝統工芸は、模倣を否定しない。むしろ決められたことを守り、同じものを早く綺麗に作ることができると腕がいいとされるが、純粋芸術の世界でそれはNGだ。 しかし、思い描いたものを作ろうとしたときにはやはり技術がないとできない。 そうしたときに井波で伝統的に培われた技術が生き、さらに各々のオリジナリティを乗せることで羽ばたいていけるのではないか。そう、野村氏は語った。 「両方やっているから両方の良さがわかるし、双方を行き来しながら互いの良さを応用することができる」 彫刻師としての思い 井波彫刻について ―野村さんの今後やってみたいことや目標について教えていただけますか。 欄間の受注をずっとやってきましたが、欄間は今需要が落ちているから、この技術を生かして何か欄間のような目玉になるようなものを開発していかないとと思いますね。それが井波彫刻の今の課題だと思います。 それと、井波は名古屋城や首里城のような文化財の復元の需要がありますが、それは彫刻師の集団が井波にしかいないからということはもちろん、欄間で培った技術があるから。 ただし、今は若い人は修業時代から欄間を教わっていなかったり、欄間をやっていない人も多い。教えられる人が存命なのでまだ今なら若い人に教えられる、伝承できる。 でも10年後はどうなっているかわからないから、今が大事な時期ではないかと思います。自分らが欄間をやってきた最後の世代だから、そういうことも必要だと思いますね。 作り手としての哲学 ―野村さんが彫刻を作る際に大切にしていることについて教えていただけますか。 接したお客さんに喜んでもらえるものをつくること。それがすべてですね。 ―人生で大事にしていることも教えてください。 慣れないこと。慣れが一番ダメなことだと思います。これがこうだからこうなってしまうよね、という感覚でやらないこと。常に初心で。これを戒めにしています。 井波彫刻師・野村光雄氏の工房に並ぶ欄間。工房に並ぶ欄間の数々が職人技を物語る。