コラム:井波の今昔あれこれ
自分の歩幅で歩む 井波彫刻師・久保大樹
美術やものづくりとは異なる分野から井波彫刻の世界へ飛び込んだ、珍しい経歴を持つ久保大樹氏。 生まれ育ったのは北海道。大学時代を過ごした新潟で、北海道と本州の文化的な違いに興味を抱いたこと、それから中学時代から考えていた“職人”という生き方への関心が今に繋がっていった。 周りとは異なるスタートであったからこそ地道に歩み、努力を積み重ねてきた、その背景に想いを馳せる。 “職人”へのあゆみ 萌芽 中学生のころから漠然と抱いていた夢は職人だった。 進路希望で「農業か職人をやりたい」と伝えたものの、担任から「とりあえず高校に行こう」と促され高校へ入学。 入学した高校が進学校であったため、周りが皆大学へ行くならばと深く考えず、しかし誰とも被らないところを、と選んで進学したのが新潟大学人文学部だった。 大学時代、マスメディアを中心に就活をしていた時期もあったが、やはり職人になるには今しかできないと職人を目指すことにしたという。 新潟県内の伝統工芸職人のもとを尋ね歩いたうちの1軒で、井波彫刻の存在を知った。 なぜ中学生の頃から「職人」という生き方に惹かれていたのだろうか。 「当時はバブル期で、人が汗水垂らさなくても、右から左へ流すだけで大金が手に入るような時代だった。でも、そういうことに子どもながらに疑問を持っていて。自分の手で働く、汗を流して働くということを目指そうとしていたんだと思います。」 農業にも興味はあったが、家業が農家ではなかったことから「職人の方が現実的だろう」と考えたという。 中学生にして既に自分なりの仕事観を持っていた久保氏。その感覚は、その後の生き方にもつながっているように思える。 ちなみに大学の専攻は日本民俗学。 元々は考古学を希望していたが、初めて訪れた新潟で、立派な寺院や彫刻、伝統工芸、日本家屋、障子、瓦屋根など、北海道では珍しい日本の伝統文化を初めて目にしたことがきっかけで、日本の伝統文化をもっと知りたいと考えるようになった。 そうした関心や思索の積み重ねが、現在の久保氏をかたちづくっているように思う。 修行時代 職人になるという夢を抱え、全くの彫刻未経験で井波へ行った久保氏。 同じく北海道出身の親方のところはどうかと紹介されたのが荒城雄山氏だった。そこで荒城氏の最初で最後の弟子として、5年の修業期間を過ごした。 修行時代について、「よく想像されるような厳しい修行時代ではなかった」と言う久保氏。 荒城氏はいわゆる“寡黙で厳しく職人らしい親方”というよりも、社交的な明るい親方で、彫刻だけでなく井波で生きていく上での人間関係や周囲との関わり方も教えてくれた。 町内のソフトボールに連れていかれたり、突然キャッチボールに誘われたりと、親方には息子のようにかわいがってもらったと当時を振り返る。 修行に励む弟子時代の久保氏。 本当の修行は しかし5年間の年季を明けて独立した久保氏だが、そこからが本当の修行だったという。 親方のもとで身につけた技術があっても、周りと比較して焦り、思い詰め、「5年やってもまだ彫刻を知らない」「自分は仕事ができない」と苦しむ日々が続いた。 それでもここまで続けられたのは、わからないことを教えてくれる、助言してくれる良き先輩との出会いがあったからだと話す。 そうした中で、「自分は自分の歩幅でしか歩けないから」と考え方を徐々に変えていった。 「どうして今自分が生きているのかはわからない。ずっと勉強中ではあるけど、振り返ればあの時の自分よりは今の方ができるようになっているなと。なんとか30年くらいやって来れたから、辞めないで真面目に取り組めば生きていけるのかなと、そう思います。」...
自分の歩幅で歩む 井波彫刻師・久保大樹
美術やものづくりとは異なる分野から井波彫刻の世界へ飛び込んだ、珍しい経歴を持つ久保大樹氏。 生まれ育ったのは北海道。大学時代を過ごした新潟で、北海道と本州の文化的な違いに興味を抱いたこと、それから中学時代から考えていた“職人”という生き方への関心が今に繋がっていった。 周りとは異なるスタートであったからこそ地道に歩み、努力を積み重ねてきた、その背景に想いを馳せる。 “職人”へのあゆみ 萌芽 中学生のころから漠然と抱いていた夢は職人だった。 進路希望で「農業か職人をやりたい」と伝えたものの、担任から「とりあえず高校に行こう」と促され高校へ入学。 入学した高校が進学校であったため、周りが皆大学へ行くならばと深く考えず、しかし誰とも被らないところを、と選んで進学したのが新潟大学人文学部だった。 大学時代、マスメディアを中心に就活をしていた時期もあったが、やはり職人になるには今しかできないと職人を目指すことにしたという。 新潟県内の伝統工芸職人のもとを尋ね歩いたうちの1軒で、井波彫刻の存在を知った。 なぜ中学生の頃から「職人」という生き方に惹かれていたのだろうか。 「当時はバブル期で、人が汗水垂らさなくても、右から左へ流すだけで大金が手に入るような時代だった。でも、そういうことに子どもながらに疑問を持っていて。自分の手で働く、汗を流して働くということを目指そうとしていたんだと思います。」 農業にも興味はあったが、家業が農家ではなかったことから「職人の方が現実的だろう」と考えたという。 中学生にして既に自分なりの仕事観を持っていた久保氏。その感覚は、その後の生き方にもつながっているように思える。 ちなみに大学の専攻は日本民俗学。 元々は考古学を希望していたが、初めて訪れた新潟で、立派な寺院や彫刻、伝統工芸、日本家屋、障子、瓦屋根など、北海道では珍しい日本の伝統文化を初めて目にしたことがきっかけで、日本の伝統文化をもっと知りたいと考えるようになった。 そうした関心や思索の積み重ねが、現在の久保氏をかたちづくっているように思う。 修行時代 職人になるという夢を抱え、全くの彫刻未経験で井波へ行った久保氏。 同じく北海道出身の親方のところはどうかと紹介されたのが荒城雄山氏だった。そこで荒城氏の最初で最後の弟子として、5年の修業期間を過ごした。 修行時代について、「よく想像されるような厳しい修行時代ではなかった」と言う久保氏。 荒城氏はいわゆる“寡黙で厳しく職人らしい親方”というよりも、社交的な明るい親方で、彫刻だけでなく井波で生きていく上での人間関係や周囲との関わり方も教えてくれた。 町内のソフトボールに連れていかれたり、突然キャッチボールに誘われたりと、親方には息子のようにかわいがってもらったと当時を振り返る。 修行に励む弟子時代の久保氏。 本当の修行は しかし5年間の年季を明けて独立した久保氏だが、そこからが本当の修行だったという。 親方のもとで身につけた技術があっても、周りと比較して焦り、思い詰め、「5年やってもまだ彫刻を知らない」「自分は仕事ができない」と苦しむ日々が続いた。 それでもここまで続けられたのは、わからないことを教えてくれる、助言してくれる良き先輩との出会いがあったからだと話す。 そうした中で、「自分は自分の歩幅でしか歩けないから」と考え方を徐々に変えていった。 「どうして今自分が生きているのかはわからない。ずっと勉強中ではあるけど、振り返ればあの時の自分よりは今の方ができるようになっているなと。なんとか30年くらいやって来れたから、辞めないで真面目に取り組めば生きていけるのかなと、そう思います。」...
豪華な井波彫刻の欄間、アメリカ・フロリダの博物館へ|寄稿文
横幅は最大で282センチ、高さ40センチ、厚さ7センチの大型欄間7点が、日本を離れ、アメリカ・フロリダ州のモリカミ博物館・日本庭園に寄贈されます。 2026年9月18日(金曜日)、南砺市井波で行われた記者会見と調印式には、作者の家族や関係者が立ち会い、贈られる欄間に見入っていました。 記者会見の様子<南砺市提供> 井波彫刻の欄間が、まとまった作品として海外の博物館に収蔵されるのは、これが初めてのことです。 兼六園を彫り込んだ、ひとつの依頼から 7点の欄間<南砺市提供> 7点の欄間を手がけたのは、景観を題材とする作品を得意とした井波彫刻師・谷口草雲さんです。1981年12月に完成させたこの作品群には、金沢・兼六園の「ことじ灯籠」や唐崎松、金沢城など、加賀・能登地方の景観が彫り込まれています。 琴柱灯籠を含む景観(兼六園)<南砺市提供> 依頼したのは、兼六園近くにあった料亭「兼見御亭」(けんけんおちん)。創業に合わせ、大広間を飾る一枚として制作を依頼しました。当時の女将だった馬場花子さんは、井波出身で、谷口さんとは以前から面識がありました。大広間をより豪華に見せようと、一般的な欄間より幅を広くし、地元の風物を題材とすることを花子さんの息子・吉晃さんから谷口さんに依頼しました。 制作には約2年を要したとされ、完成した欄間の出来栄えは、現役の彫刻師たちの間でも「これだけ手の込んだものは、なかなかない」と評判になったそうです。 閉業時に女将を務め、欄間の所有者でもある馬場華幸さんは「多くの人に見てもらえれば」という熱い思いから、今回、井波彫刻協同組合への贈呈を決断しました。 表裏を彫り分ける、井波彫刻の技 欄間にもわずかに鑿跡が残っています。<南砺市提供> 「欄間」という建具は、部屋と部屋の間に据えられるため、どちら側から見ても自然でなければなりません。彫刻師は平面の下絵を頭の中で立体に組み立て、表を彫りながら同時に裏側の形もつくり出します。鏡を使って反対側からの見え方を確かめながら、両面を仕上げていくのです。 井波彫刻の欄間は、下から見上げたときに奥行きと立体感が際立つよう計算されて彫られています。仕上げにサンドペーパーは使わず、最後まで鑿だけで仕上げるのが井波彫刻の技です。 プリンストン大学生が見た、井波彫刻の「後継者育成問題」 今回、アメリカへ渡るきっかけは、昨年11月から12月にかけて行われたアメリカ巡回展でした。 アメリカ巡回展の様子<井波彫刻文化交流コーディネーター 中嶋勝彦さん提供> 高度経済成長期、井波では住宅用の欄間が一大産業として栄え、彫刻師たちは腕を競いながら透かし彫りや籠彫りといった高度な技術を磨いていきました。しかし住宅の洋風化が進み、欄間の注文は大きく減少しています。今回のような大型欄間を創る機会は、極めて少なくなっています。作品を保存するだけでは次の世代へ伝わりません。若い世代が鑿を握り、井波彫刻と向き合うことで、受け継がなければいけません。 この課題に向き合ったのが、井波彫刻師・三代目南部白雲さんらでした。アメリカ7都市10会場をめぐる巡回展を企画・実施する中で立ち寄ったのが、日系人にゆかりのあるモリカミ博物館・日本庭園です。日本の文物を約8,000点所蔵し、広大な日本庭園を構える同館との間に、新たな縁が生まれました。組合側から働きかけ、恒久収蔵品としての受け入れが決まりました。 関連記事: 『井波彫刻、米国7都市で巡回展』(東京井波会 井波だより 第23号) アメリカで、そして日本で。注目を浴びる井波彫刻 井波彫刻協同組合の酒井秀哲理事長は、今回の寄贈に期待を寄せていました。 井波彫刻協同組合理事長 酒井秀哲さん<南砺市提供> 「アメリカで井波彫刻が広く知られ、壁を飾る木彫の芸術として新しい可能性を開いてほしい。」...
豪華な井波彫刻の欄間、アメリカ・フロリダの博物館へ|寄稿文
横幅は最大で282センチ、高さ40センチ、厚さ7センチの大型欄間7点が、日本を離れ、アメリカ・フロリダ州のモリカミ博物館・日本庭園に寄贈されます。 2026年9月18日(金曜日)、南砺市井波で行われた記者会見と調印式には、作者の家族や関係者が立ち会い、贈られる欄間に見入っていました。 記者会見の様子<南砺市提供> 井波彫刻の欄間が、まとまった作品として海外の博物館に収蔵されるのは、これが初めてのことです。 兼六園を彫り込んだ、ひとつの依頼から 7点の欄間<南砺市提供> 7点の欄間を手がけたのは、景観を題材とする作品を得意とした井波彫刻師・谷口草雲さんです。1981年12月に完成させたこの作品群には、金沢・兼六園の「ことじ灯籠」や唐崎松、金沢城など、加賀・能登地方の景観が彫り込まれています。 琴柱灯籠を含む景観(兼六園)<南砺市提供> 依頼したのは、兼六園近くにあった料亭「兼見御亭」(けんけんおちん)。創業に合わせ、大広間を飾る一枚として制作を依頼しました。当時の女将だった馬場花子さんは、井波出身で、谷口さんとは以前から面識がありました。大広間をより豪華に見せようと、一般的な欄間より幅を広くし、地元の風物を題材とすることを花子さんの息子・吉晃さんから谷口さんに依頼しました。 制作には約2年を要したとされ、完成した欄間の出来栄えは、現役の彫刻師たちの間でも「これだけ手の込んだものは、なかなかない」と評判になったそうです。 閉業時に女将を務め、欄間の所有者でもある馬場華幸さんは「多くの人に見てもらえれば」という熱い思いから、今回、井波彫刻協同組合への贈呈を決断しました。 表裏を彫り分ける、井波彫刻の技 欄間にもわずかに鑿跡が残っています。<南砺市提供> 「欄間」という建具は、部屋と部屋の間に据えられるため、どちら側から見ても自然でなければなりません。彫刻師は平面の下絵を頭の中で立体に組み立て、表を彫りながら同時に裏側の形もつくり出します。鏡を使って反対側からの見え方を確かめながら、両面を仕上げていくのです。 井波彫刻の欄間は、下から見上げたときに奥行きと立体感が際立つよう計算されて彫られています。仕上げにサンドペーパーは使わず、最後まで鑿だけで仕上げるのが井波彫刻の技です。 プリンストン大学生が見た、井波彫刻の「後継者育成問題」 今回、アメリカへ渡るきっかけは、昨年11月から12月にかけて行われたアメリカ巡回展でした。 アメリカ巡回展の様子<井波彫刻文化交流コーディネーター 中嶋勝彦さん提供> 高度経済成長期、井波では住宅用の欄間が一大産業として栄え、彫刻師たちは腕を競いながら透かし彫りや籠彫りといった高度な技術を磨いていきました。しかし住宅の洋風化が進み、欄間の注文は大きく減少しています。今回のような大型欄間を創る機会は、極めて少なくなっています。作品を保存するだけでは次の世代へ伝わりません。若い世代が鑿を握り、井波彫刻と向き合うことで、受け継がなければいけません。 この課題に向き合ったのが、井波彫刻師・三代目南部白雲さんらでした。アメリカ7都市10会場をめぐる巡回展を企画・実施する中で立ち寄ったのが、日系人にゆかりのあるモリカミ博物館・日本庭園です。日本の文物を約8,000点所蔵し、広大な日本庭園を構える同館との間に、新たな縁が生まれました。組合側から働きかけ、恒久収蔵品としての受け入れが決まりました。 関連記事: 『井波彫刻、米国7都市で巡回展』(東京井波会 井波だより 第23号) アメリカで、そして日本で。注目を浴びる井波彫刻 井波彫刻協同組合の酒井秀哲理事長は、今回の寄贈に期待を寄せていました。 井波彫刻協同組合理事長 酒井秀哲さん<南砺市提供> 「アメリカで井波彫刻が広く知られ、壁を飾る木彫の芸術として新しい可能性を開いてほしい。」...
考えることこそ原点 井波彫刻師・山﨑新介
「そこの庄川のところからヒッチハイクで鳥取まで行ってしまったよ」と明るく笑う山﨑氏。 なんと、若き日の修行中に脱走したことがあるというのだ。獅子頭をはじめとした祭礼関係の仕事を数多く手掛ける職人の、なんとも若きパッションあふれる(?!)エピソードだ。 今につながる祭りの思い出から、彫刻師となるまでの軌跡とは。 祭りと原体験 山﨑氏は愛知県で親が教員という家庭で生まれ、小学5年まで過ごしたのち、父の転勤で富山県射水市へやってきた。新居は海の近くだったため、最初は近所の人々の浜言葉が荒く強く聞こえ、怖かった。そのような中、近所のお兄さんたちから祭りに誘われたことをきっかけに、怖いと思っていた人たちが本当は優しかったことを知った。祭りの誘いと言っても、いわゆる遊びに行くというものではなく、祭りの担ぎ手だ。 山﨑氏は「祭りがある地域の子供は恵まれていると思う」と言う。こういった祭りのコミュニティには入りにくいという意見も多く聞かれるが、入ってしまえばとてもいい経験になる。子供のうちからやっていいこと、悪いことを学べる。色々な世代の人達とのコミュニケーションを学べる。そういう点でも子供のうちに祭りの輪に入ることは良いことではないかと語る。 このように富山へ引っ越してきたことがきっかけで地域の祭りや寺で龍等の彫刻を見て興味を持った。これが今の祭礼仕事を多く手掛ける山﨑氏の原体験だったのだろう。 獅子頭をはじめ天狗面や演舞の刀等、祭礼彫刻を数多く手掛ける。 修行時代 一番厳しい先生 井波を知ったのは、富山県立高岡工芸高校のデザイン科に通っていた高校生の時。「お前の知りたいものはここにあるだろう」とデザイン科の先生が井波に連れて行ってくれた。周囲の同級生たちがデザイン関係の進路を選択する中で、一人、井波彫刻師を目指すことにした。両親は「自分のやりたいことなんだから」と背中を押してくれた。 さて、冒頭に述べたように少々血気盛ん(?)なところもあった山﨑氏は、井波に来て職業訓練校の当時の校長との面談の中で「一番厳しい先生のところに行きたいです」と、希望。であれば、と紹介され、晴れて弟子入りした先は、明治生まれの二代目南部白雲氏の工房だった。 二代目南部白雲氏は当時74歳。話す言葉は古い言葉が多く、現在の三代目南部白雲氏に通訳してもらうことも多かったという。 「自分で考えろ」 これが、親方・二代目南部白雲氏の教え方だった。 当時、マニュアルのようなものがあると思っていた山﨑氏だったが、井波彫刻の修行では、マニュアルどころか答えすら提示されることはなかった。 南部白雲工房では、親方の図案を見て、どの木材を使うべきかを選ぶところから自分で考える。同じ材質であっても、一つひとつ木目や節が違う。その中から最適なものを選び、どう彫るかも自分で考える。 最初に任された仕事は寺に納める唐狭間の仕上げ。悩みながら作業したものを親方に見せると、一言「これは死んどるな」。どこがどう死んでいるのかを聞いても、「自分で考えろ」「うどんをこぼしたような線やな」と言われるばかりだった。 牡丹を本物のように彫ればいいのかと、実物をよく観察して作ってみたこともあったが、それも正しい答えではなかった。 「そっくりで良いのだったら模型で良い。」 何度も「死んどる」と言われ、そのたびに考え、やり直す日々を過ごした。そんなある日、親方が「わかった」と言い、持ってきた制作物にスッ、スッ、と2回だけノミを入れた。 たったそれだけで、それまで滞留していた“流れ”が、あざやかに流れ出した。 「今ならわかりますが、“生きてる”というのは、たとえば花の葉脈が少しずれただけですべてが変わってしまうように、その場面の流れの起承転結、またその場面や構図の主従がわかるように導線ができているということではないかと思います。」 もっとも、当時はそんな親方の意図がわからず、苛立つことも多かった。そんな様子を親方は“あばれもん”と呼んだ。 冒頭でも書いたが、あばれもんだった山﨑氏はある日脱走した。きっかけは、親方から仏像を彫るよう言われたことだった。何をどう作ればいいのかわからなかった。「仏さんなんて(いきなり言われても)意味わかりません」「ほんなら頭冷やしてこい」 その言葉を「いとまをもらった」と受け取り、着の身着のままヒッチハイクであてもなく西へと向かった。旅は3か月にも及んだ。 やがて終着点の京都で親に電話をかけた。親からの言葉は「親方が心配しているから親方へ電話をしろ」だった。恐る恐る親方へ電話をかけると、返ってきたのは「頭冷えたか?早く帰ってこい」の一言。戻った山﨑氏を、親方は「また明日からちゃっちゃとやれよ、今日はもう寝え」と迎えた。 翌日から、再び彫刻と向き合う日々が始まった。 山﨑氏は修行時代を振り返り、「自分でたっぷり悩む時間がないと咀嚼できないから、あれは今から思うとぜいたくな時間だった。おやっさんも我慢して指導してくれてたんだろうな。さっさと答えを教えた方が教える側は楽だろうが、答えを自分で見つけるまで待っていてくれたんだ。」と言う。 答えを教わるのではなく、自分で考え、試し、答えを見つける。修行時代に繰り返したその営みは、今の山﨑氏の仕事にもつながっている。...
考えることこそ原点 井波彫刻師・山﨑新介
「そこの庄川のところからヒッチハイクで鳥取まで行ってしまったよ」と明るく笑う山﨑氏。 なんと、若き日の修行中に脱走したことがあるというのだ。獅子頭をはじめとした祭礼関係の仕事を数多く手掛ける職人の、なんとも若きパッションあふれる(?!)エピソードだ。 今につながる祭りの思い出から、彫刻師となるまでの軌跡とは。 祭りと原体験 山﨑氏は愛知県で親が教員という家庭で生まれ、小学5年まで過ごしたのち、父の転勤で富山県射水市へやってきた。新居は海の近くだったため、最初は近所の人々の浜言葉が荒く強く聞こえ、怖かった。そのような中、近所のお兄さんたちから祭りに誘われたことをきっかけに、怖いと思っていた人たちが本当は優しかったことを知った。祭りの誘いと言っても、いわゆる遊びに行くというものではなく、祭りの担ぎ手だ。 山﨑氏は「祭りがある地域の子供は恵まれていると思う」と言う。こういった祭りのコミュニティには入りにくいという意見も多く聞かれるが、入ってしまえばとてもいい経験になる。子供のうちからやっていいこと、悪いことを学べる。色々な世代の人達とのコミュニケーションを学べる。そういう点でも子供のうちに祭りの輪に入ることは良いことではないかと語る。 このように富山へ引っ越してきたことがきっかけで地域の祭りや寺で龍等の彫刻を見て興味を持った。これが今の祭礼仕事を多く手掛ける山﨑氏の原体験だったのだろう。 獅子頭をはじめ天狗面や演舞の刀等、祭礼彫刻を数多く手掛ける。 修行時代 一番厳しい先生 井波を知ったのは、富山県立高岡工芸高校のデザイン科に通っていた高校生の時。「お前の知りたいものはここにあるだろう」とデザイン科の先生が井波に連れて行ってくれた。周囲の同級生たちがデザイン関係の進路を選択する中で、一人、井波彫刻師を目指すことにした。両親は「自分のやりたいことなんだから」と背中を押してくれた。 さて、冒頭に述べたように少々血気盛ん(?)なところもあった山﨑氏は、井波に来て職業訓練校の当時の校長との面談の中で「一番厳しい先生のところに行きたいです」と、希望。であれば、と紹介され、晴れて弟子入りした先は、明治生まれの二代目南部白雲氏の工房だった。 二代目南部白雲氏は当時74歳。話す言葉は古い言葉が多く、現在の三代目南部白雲氏に通訳してもらうことも多かったという。 「自分で考えろ」 これが、親方・二代目南部白雲氏の教え方だった。 当時、マニュアルのようなものがあると思っていた山﨑氏だったが、井波彫刻の修行では、マニュアルどころか答えすら提示されることはなかった。 南部白雲工房では、親方の図案を見て、どの木材を使うべきかを選ぶところから自分で考える。同じ材質であっても、一つひとつ木目や節が違う。その中から最適なものを選び、どう彫るかも自分で考える。 最初に任された仕事は寺に納める唐狭間の仕上げ。悩みながら作業したものを親方に見せると、一言「これは死んどるな」。どこがどう死んでいるのかを聞いても、「自分で考えろ」「うどんをこぼしたような線やな」と言われるばかりだった。 牡丹を本物のように彫ればいいのかと、実物をよく観察して作ってみたこともあったが、それも正しい答えではなかった。 「そっくりで良いのだったら模型で良い。」 何度も「死んどる」と言われ、そのたびに考え、やり直す日々を過ごした。そんなある日、親方が「わかった」と言い、持ってきた制作物にスッ、スッ、と2回だけノミを入れた。 たったそれだけで、それまで滞留していた“流れ”が、あざやかに流れ出した。 「今ならわかりますが、“生きてる”というのは、たとえば花の葉脈が少しずれただけですべてが変わってしまうように、その場面の流れの起承転結、またその場面や構図の主従がわかるように導線ができているということではないかと思います。」 もっとも、当時はそんな親方の意図がわからず、苛立つことも多かった。そんな様子を親方は“あばれもん”と呼んだ。 冒頭でも書いたが、あばれもんだった山﨑氏はある日脱走した。きっかけは、親方から仏像を彫るよう言われたことだった。何をどう作ればいいのかわからなかった。「仏さんなんて(いきなり言われても)意味わかりません」「ほんなら頭冷やしてこい」 その言葉を「いとまをもらった」と受け取り、着の身着のままヒッチハイクであてもなく西へと向かった。旅は3か月にも及んだ。 やがて終着点の京都で親に電話をかけた。親からの言葉は「親方が心配しているから親方へ電話をしろ」だった。恐る恐る親方へ電話をかけると、返ってきたのは「頭冷えたか?早く帰ってこい」の一言。戻った山﨑氏を、親方は「また明日からちゃっちゃとやれよ、今日はもう寝え」と迎えた。 翌日から、再び彫刻と向き合う日々が始まった。 山﨑氏は修行時代を振り返り、「自分でたっぷり悩む時間がないと咀嚼できないから、あれは今から思うとぜいたくな時間だった。おやっさんも我慢して指導してくれてたんだろうな。さっさと答えを教えた方が教える側は楽だろうが、答えを自分で見つけるまで待っていてくれたんだ。」と言う。 答えを教わるのではなく、自分で考え、試し、答えを見つける。修行時代に繰り返したその営みは、今の山﨑氏の仕事にもつながっている。...
常に学び、楽しんで。井波彫刻師 島田見根夫
「彫刻って楽しいじゃないですか。だって、そのために井波に来たんだから。」 そう朗らかに話す島田氏は、高校卒業と同時に井波彫刻の門戸を叩き、半世紀近くを経てなお、「すべてが学び」という姿勢を崩さない。伝統的な井波彫刻を手がける一方、日展をはじめとする公募展でも作品を発表し、現在は日展会員、井波彫刻伝統工芸士会会長も務める。 長年ストイックに研鑽し彫刻を制作し続けてきてなお、話の中でたびたび出てくる「勉強」という言葉に背筋が伸びる思いがした。 井波彫刻との出会いと修行時代 故郷を離れて 島田氏は石川県羽咋郡志賀町の出身。子どものころから絵を描いたり工作をしたりすることが好きで、将来は大工になりたいと思っていたという。 井波彫刻との出会いは高校時代のことだった。卒業後の進路について考えていたある日、たまたまテレビに映った瑞泉寺の彫刻を目にした。 「かっこいいと思った。これだと思った。」 高校3年の夏、進路指導の先生のつてを頼り、初めて井波を訪れた。3か所ほどの工房を訪ねたのち、三代目加茂蕃山氏に師事することになった。 生まれ育った土地を離れ、職人の町へ。隣県でありながら、井波は地元よりも雪が多く、最初は大変に感じたという。 当時、師匠のもとには島田氏を含め9人の弟子がいた。遠く静岡から修行に来ていた同期もいた。現在も井波で学びたいという若者は県の内外で後を絶たないが、1つの工房だけで9人も弟子がいたというのは往時の井波彫刻の勢いを感じるエピソードだ。 ひたすら学びに邁進する 入門して最初の1週間は、ひたすら獅子頭の絵を描いた。 正面、上、後ろ。そして内部の構造をデッサンする。そして、あらゆる方向から形を捉え、採寸し、製図に起こしていく。表面だけではなく、その形がどう成り立っているのかを理解する。 そうして1か月ほど経つころから、兄弟子に教わりながら、少しずつ実際の彫刻に取り組むようになった。 島田氏の確かな技術はこうした「かたちを正しく捉えアウトプットする」修練から学んだことが土台にあるのだろうか。 「井波には彫刻をしに来たんやから」と、休みの日も遊びに出ることはほとんどなく、彫刻の練習や勉強に時間を使った。 節のある木を扱うときでさえ、「技術を学ぶチャンス」だと考えたという。 人間関係で苦労することもあったが、周囲の兄弟子たちに励まされながら、ますます自分の修行に集中した。 やがて師匠が亡くなり、島田氏は番頭として後輩たちを見る立場になった。このこともまた、「後輩にがっかりされたくない」と、より一層技術を身につけようとする原動力になった。 当時を振り返り、「褒められたことはないけど、温かく見てもらえていたんじゃないかな」と目を細める。 実は少し下から見たときに一番綺麗に見えるように彫っているそう。まさに匠の技。 「彫刻」をやる 30歳で独立した島田氏は、井波彫刻師として欄間や置物など、さまざまな注文仕事を手がけてきた。一方で、修行時代から少しずつ井波彫刻以外の彫刻の世界にも足を踏み入れていた。 きっかけは、現在の四代目加茂蕃山氏であり、兄弟子でもあった為男氏だった。 為男氏が公募展に出品する作品制作のため、島田氏にモデルを頼むことがあった。そこで人体の骨格や立体表現に触れ、「自分の勉強にもなるのではないか」と興味を持つようになったという。当時多かった依頼の伝統的な欄間彫刻は半立体、展覧会作品は立体だからこそ、やらないよりやった方が自分の学びに繋がると考えて、展覧会用の作品制作を始めた。日展には3度目の挑戦で初入選。その後も日展や日本彫刻会展覧会などで作品を発表し、受賞を重ねてきた。令和7年度の日展では《いつの日か》にて東京都知事賞を受賞している。 東京都知事賞受賞作品《いつの日か》今にも息遣いが聞こえてくるよう。 常に学ぶ、常に挑戦 島田さんは、これが得意だというものはありますか。 ー特別に何かというより、平面か立体かで言えば立体の方でしょうか。でも、『何が得意か』という評価は他人が決めることだと思っています。自分では、すべてを「挑戦」と捉えています。『これが得意』と決めつけてしまうと、ほかのことを学ぶときに引っかかってしまうと思うんです。...
常に学び、楽しんで。井波彫刻師 島田見根夫
「彫刻って楽しいじゃないですか。だって、そのために井波に来たんだから。」 そう朗らかに話す島田氏は、高校卒業と同時に井波彫刻の門戸を叩き、半世紀近くを経てなお、「すべてが学び」という姿勢を崩さない。伝統的な井波彫刻を手がける一方、日展をはじめとする公募展でも作品を発表し、現在は日展会員、井波彫刻伝統工芸士会会長も務める。 長年ストイックに研鑽し彫刻を制作し続けてきてなお、話の中でたびたび出てくる「勉強」という言葉に背筋が伸びる思いがした。 井波彫刻との出会いと修行時代 故郷を離れて 島田氏は石川県羽咋郡志賀町の出身。子どものころから絵を描いたり工作をしたりすることが好きで、将来は大工になりたいと思っていたという。 井波彫刻との出会いは高校時代のことだった。卒業後の進路について考えていたある日、たまたまテレビに映った瑞泉寺の彫刻を目にした。 「かっこいいと思った。これだと思った。」 高校3年の夏、進路指導の先生のつてを頼り、初めて井波を訪れた。3か所ほどの工房を訪ねたのち、三代目加茂蕃山氏に師事することになった。 生まれ育った土地を離れ、職人の町へ。隣県でありながら、井波は地元よりも雪が多く、最初は大変に感じたという。 当時、師匠のもとには島田氏を含め9人の弟子がいた。遠く静岡から修行に来ていた同期もいた。現在も井波で学びたいという若者は県の内外で後を絶たないが、1つの工房だけで9人も弟子がいたというのは往時の井波彫刻の勢いを感じるエピソードだ。 ひたすら学びに邁進する 入門して最初の1週間は、ひたすら獅子頭の絵を描いた。 正面、上、後ろ。そして内部の構造をデッサンする。そして、あらゆる方向から形を捉え、採寸し、製図に起こしていく。表面だけではなく、その形がどう成り立っているのかを理解する。 そうして1か月ほど経つころから、兄弟子に教わりながら、少しずつ実際の彫刻に取り組むようになった。 島田氏の確かな技術はこうした「かたちを正しく捉えアウトプットする」修練から学んだことが土台にあるのだろうか。 「井波には彫刻をしに来たんやから」と、休みの日も遊びに出ることはほとんどなく、彫刻の練習や勉強に時間を使った。 節のある木を扱うときでさえ、「技術を学ぶチャンス」だと考えたという。 人間関係で苦労することもあったが、周囲の兄弟子たちに励まされながら、ますます自分の修行に集中した。 やがて師匠が亡くなり、島田氏は番頭として後輩たちを見る立場になった。このこともまた、「後輩にがっかりされたくない」と、より一層技術を身につけようとする原動力になった。 当時を振り返り、「褒められたことはないけど、温かく見てもらえていたんじゃないかな」と目を細める。 実は少し下から見たときに一番綺麗に見えるように彫っているそう。まさに匠の技。 「彫刻」をやる 30歳で独立した島田氏は、井波彫刻師として欄間や置物など、さまざまな注文仕事を手がけてきた。一方で、修行時代から少しずつ井波彫刻以外の彫刻の世界にも足を踏み入れていた。 きっかけは、現在の四代目加茂蕃山氏であり、兄弟子でもあった為男氏だった。 為男氏が公募展に出品する作品制作のため、島田氏にモデルを頼むことがあった。そこで人体の骨格や立体表現に触れ、「自分の勉強にもなるのではないか」と興味を持つようになったという。当時多かった依頼の伝統的な欄間彫刻は半立体、展覧会作品は立体だからこそ、やらないよりやった方が自分の学びに繋がると考えて、展覧会用の作品制作を始めた。日展には3度目の挑戦で初入選。その後も日展や日本彫刻会展覧会などで作品を発表し、受賞を重ねてきた。令和7年度の日展では《いつの日か》にて東京都知事賞を受賞している。 東京都知事賞受賞作品《いつの日か》今にも息遣いが聞こえてくるよう。 常に学ぶ、常に挑戦 島田さんは、これが得意だというものはありますか。 ー特別に何かというより、平面か立体かで言えば立体の方でしょうか。でも、『何が得意か』という評価は他人が決めることだと思っています。自分では、すべてを「挑戦」と捉えています。『これが得意』と決めつけてしまうと、ほかのことを学ぶときに引っかかってしまうと思うんです。...
井波彫刻とは②欄間彫刻の発展
『欄間』とは 井波彫刻を語るうえで欠かせないのが「欄間」です。欄間とは、日本の伝統建築において、天井と鴨居の間に設けられた開口部のことで、主に空気の循環や採光を目的とした部位を指します。 旅館や飲食店などで、こうしたものを目にしたことがある人も多いのではないでしょうか。この欄間を装飾的に仕上げたものが、いわゆる「欄間彫刻」と呼ばれるものです。欄間彫刻自体は井波に限ったものではないものの、井波彫刻の発展と切り離して語ることのできない存在が、この欄間彫刻と、井波彫刻らしさたらしめる欄間の技術なのです。 なお、現在も欄間の産地としては井波の他では大阪が有名です。大阪は「大阪欄間」という伝統工芸として登録されており、細い材を組んで作る組子欄間や、板に絵柄や文様を彫り抜く透彫欄間等さまざまな種類があり、その中のひとつとして華麗な欄間彫刻もあるという位置づけです。大阪欄間は江戸期の町人文化の中で花開いたものと言われており、寺院装飾の彫刻から始まり一般住宅の欄間も手掛けるようになった井波とはまた違う風合いが感じられます。 井波彫刻と欄間彫刻の技術 欄間彫刻は、「透かし彫り」と呼ばれる技法によって制作されます。採光を確保するために適度な隙間を残しながら、5〜7cmほどの厚みの一枚板を立体的に彫り抜く技法で、まるで絵画を立体化したかのような、美術品のような仕上がりが特徴です。一見すると非常に繊細に見える彫刻ですが、細やかに彫り分けられたパーツの一つ一つは、実はすべてが緻密につながる構造となっており、それによって高い耐久性が保たれています。 井波彫刻の欄間は、その精緻さや意匠性から、一度目にするとすごい!と思う人が少なくないはず。中でも特筆すべきは、透かし彫りによって生み出される立体感。欄間は天井付近に設置されるため、真正面からではなく、下や斜めから見上げることを想定して彫られています。そのため、どの角度から見ても美しく見えるよう、あらかじめ計算された造形となっているのです。 何人かの彫刻師に井波彫刻の特徴を尋ねたところ、「この欄間で培われた技術こそが井波らしさ」であると教えてくれました。薄い一枚板すら立体的に彫り出すことができる高度な技。これこそが、井波彫刻の真骨頂なのかもしれません。 こうした技術も井波欄間彫刻の大きな特徴であり、明治期から昭和期にかけて、日本全国に井波の名が知られ、注文が殺到した要因の一つであったと考えられます。 欄間彫刻の普及 欄間彫刻が民間の和風建築に広く普及したのは明治期以降で、それ以前は寺院や城郭建築の装飾として用いられるのが一般的でした。井波では、寺院装飾として用いられる欄間彫刻を「唐狭間(からさま)」と呼びます。 彫刻師・太田利治氏のホームページによれば、「唐狭間」という言葉は江戸時代から使われるようになり、浄土真宗寺院本堂の欄間を指す言葉とされています。また、「唐狭間には鳳凰や龍などの図柄が彫られ、かつての庫裡の欄間には蝙蝠などの図柄、明治以降の一般住宅の欄間には風景や花、小鳥といった写実的な図柄を彫るのが基本」と解説されています。(※引用:http://www.kibori.com/product.html) また、明治期に入って欄間彫刻が広く普及した背景には、いわゆる和風建築の一般化があったといわれています。一般的な民家への普及は昭和期に入ってからですが、これも井波彫刻にとって大きな転換点でした。 江戸期までは一子相伝が基本で、井波全体でも彫刻師は10人ほどでしたが、明治以降、需要の拡大に伴って徒弟制が広まり、親方が弟子を取るようになります。こうして彫刻師の数は増え、昭和期の最盛期へと向かう土台が築かれていきました。 住宅用欄間の需要は、昭和の高度経済成長期に最も高まり、「井波といえば欄間」というイメージが定着したのもこの頃ではないでしょうか。昭和期を知るベテラン彫刻師は「とにかく忙しかった」と当時を懐かしみ、繁忙期には深夜まで作業が続くことも珍しくなかったといいます。 井波の欄間がこれほどまでに普及した背景には、当時の住宅事情も大きく影響していたと考えられます。高度成長期を迎えた当時、新築ラッシュで持ち家は一軒家が主流だったことに加え、富山県は一軒一軒の住宅が広く、欄間や衝立といった装飾品を取り入れやすい環境だったことも、その一因ではないでしょうか。 職人と個性、そして現在 欄間制作は、まず依頼主の要望を聞き、それを図案に起こすところから始まります。面相筆で描かれた図案は、それだけで一枚の絵画として完成度の高い美しさ。前述の中で「美術品のような」「絵画を立体化したような」と表現しましたが、まさにこの工程が起点となって美しい欄間彫刻となるのでしょう。 耐久性を確保するため、すべてのパーツがつながるよう工夫して図案化し、その通りに彫り上げる―これこそが、井波で受け継がれ研ぎ澄まされてきた技術。同時に、図案や表現には彫刻師それぞれの個性が色濃く反映されており、職人でありながら強い作家性を併せ持つ存在であることも、井波彫刻師の特徴といえます。 公益財団法人竹中大工道具館編集・発行の『井波彫刻―物語を彫る』の中で、那谷寺文化財研究所の賀古唯義氏は次のように述べています。 「時代の変化とともに住宅欄間の需要は減り、工芸品的な作品の比重が増した。かつて『職人』であった彫物工は『芸術家』としての性格を強めているが、両者は車の両輪である」(p.27) 高度な技術を持つ職人であること、そして決まった「型」に縛られない表現を生み出す作家性を持つこと。数多くいる彫刻師の中から、欄間をはじめとした彫刻品を誰に依頼するかを決定づけるものは、こうした個々のオリジナリティなのではないでしょうか。 現在では、欄間制作で培われた技術を生かし、欄間風パネルなどの立体絵画的作品が多く生み出されています。鴨居に設置するものから、壁に飾って楽しむ作品へと形を変えながら、井波彫刻は新たな展開を見せています。 また、オーダーメイドで依頼主の要望に応える制作だけでなく、彫刻師自身が技と表現を凝らして制作した作品が、工房や店頭に並ぶようにもなりました。「これを作ってくれる人に依頼する」時代から、「この人の作品がほしい」と選ばれる時代へ。そうした中で切磋琢磨し彫刻技術を生かした多様な商品が生まれ、住宅欄間自体は需要が減少しても、その技術は失われず深化を続けているようにも思います。
井波彫刻とは②欄間彫刻の発展
『欄間』とは 井波彫刻を語るうえで欠かせないのが「欄間」です。欄間とは、日本の伝統建築において、天井と鴨居の間に設けられた開口部のことで、主に空気の循環や採光を目的とした部位を指します。 旅館や飲食店などで、こうしたものを目にしたことがある人も多いのではないでしょうか。この欄間を装飾的に仕上げたものが、いわゆる「欄間彫刻」と呼ばれるものです。欄間彫刻自体は井波に限ったものではないものの、井波彫刻の発展と切り離して語ることのできない存在が、この欄間彫刻と、井波彫刻らしさたらしめる欄間の技術なのです。 なお、現在も欄間の産地としては井波の他では大阪が有名です。大阪は「大阪欄間」という伝統工芸として登録されており、細い材を組んで作る組子欄間や、板に絵柄や文様を彫り抜く透彫欄間等さまざまな種類があり、その中のひとつとして華麗な欄間彫刻もあるという位置づけです。大阪欄間は江戸期の町人文化の中で花開いたものと言われており、寺院装飾の彫刻から始まり一般住宅の欄間も手掛けるようになった井波とはまた違う風合いが感じられます。 井波彫刻と欄間彫刻の技術 欄間彫刻は、「透かし彫り」と呼ばれる技法によって制作されます。採光を確保するために適度な隙間を残しながら、5〜7cmほどの厚みの一枚板を立体的に彫り抜く技法で、まるで絵画を立体化したかのような、美術品のような仕上がりが特徴です。一見すると非常に繊細に見える彫刻ですが、細やかに彫り分けられたパーツの一つ一つは、実はすべてが緻密につながる構造となっており、それによって高い耐久性が保たれています。 井波彫刻の欄間は、その精緻さや意匠性から、一度目にするとすごい!と思う人が少なくないはず。中でも特筆すべきは、透かし彫りによって生み出される立体感。欄間は天井付近に設置されるため、真正面からではなく、下や斜めから見上げることを想定して彫られています。そのため、どの角度から見ても美しく見えるよう、あらかじめ計算された造形となっているのです。 何人かの彫刻師に井波彫刻の特徴を尋ねたところ、「この欄間で培われた技術こそが井波らしさ」であると教えてくれました。薄い一枚板すら立体的に彫り出すことができる高度な技。これこそが、井波彫刻の真骨頂なのかもしれません。 こうした技術も井波欄間彫刻の大きな特徴であり、明治期から昭和期にかけて、日本全国に井波の名が知られ、注文が殺到した要因の一つであったと考えられます。 欄間彫刻の普及 欄間彫刻が民間の和風建築に広く普及したのは明治期以降で、それ以前は寺院や城郭建築の装飾として用いられるのが一般的でした。井波では、寺院装飾として用いられる欄間彫刻を「唐狭間(からさま)」と呼びます。 彫刻師・太田利治氏のホームページによれば、「唐狭間」という言葉は江戸時代から使われるようになり、浄土真宗寺院本堂の欄間を指す言葉とされています。また、「唐狭間には鳳凰や龍などの図柄が彫られ、かつての庫裡の欄間には蝙蝠などの図柄、明治以降の一般住宅の欄間には風景や花、小鳥といった写実的な図柄を彫るのが基本」と解説されています。(※引用:http://www.kibori.com/product.html) また、明治期に入って欄間彫刻が広く普及した背景には、いわゆる和風建築の一般化があったといわれています。一般的な民家への普及は昭和期に入ってからですが、これも井波彫刻にとって大きな転換点でした。 江戸期までは一子相伝が基本で、井波全体でも彫刻師は10人ほどでしたが、明治以降、需要の拡大に伴って徒弟制が広まり、親方が弟子を取るようになります。こうして彫刻師の数は増え、昭和期の最盛期へと向かう土台が築かれていきました。 住宅用欄間の需要は、昭和の高度経済成長期に最も高まり、「井波といえば欄間」というイメージが定着したのもこの頃ではないでしょうか。昭和期を知るベテラン彫刻師は「とにかく忙しかった」と当時を懐かしみ、繁忙期には深夜まで作業が続くことも珍しくなかったといいます。 井波の欄間がこれほどまでに普及した背景には、当時の住宅事情も大きく影響していたと考えられます。高度成長期を迎えた当時、新築ラッシュで持ち家は一軒家が主流だったことに加え、富山県は一軒一軒の住宅が広く、欄間や衝立といった装飾品を取り入れやすい環境だったことも、その一因ではないでしょうか。 職人と個性、そして現在 欄間制作は、まず依頼主の要望を聞き、それを図案に起こすところから始まります。面相筆で描かれた図案は、それだけで一枚の絵画として完成度の高い美しさ。前述の中で「美術品のような」「絵画を立体化したような」と表現しましたが、まさにこの工程が起点となって美しい欄間彫刻となるのでしょう。 耐久性を確保するため、すべてのパーツがつながるよう工夫して図案化し、その通りに彫り上げる―これこそが、井波で受け継がれ研ぎ澄まされてきた技術。同時に、図案や表現には彫刻師それぞれの個性が色濃く反映されており、職人でありながら強い作家性を併せ持つ存在であることも、井波彫刻師の特徴といえます。 公益財団法人竹中大工道具館編集・発行の『井波彫刻―物語を彫る』の中で、那谷寺文化財研究所の賀古唯義氏は次のように述べています。 「時代の変化とともに住宅欄間の需要は減り、工芸品的な作品の比重が増した。かつて『職人』であった彫物工は『芸術家』としての性格を強めているが、両者は車の両輪である」(p.27) 高度な技術を持つ職人であること、そして決まった「型」に縛られない表現を生み出す作家性を持つこと。数多くいる彫刻師の中から、欄間をはじめとした彫刻品を誰に依頼するかを決定づけるものは、こうした個々のオリジナリティなのではないでしょうか。 現在では、欄間制作で培われた技術を生かし、欄間風パネルなどの立体絵画的作品が多く生み出されています。鴨居に設置するものから、壁に飾って楽しむ作品へと形を変えながら、井波彫刻は新たな展開を見せています。 また、オーダーメイドで依頼主の要望に応える制作だけでなく、彫刻師自身が技と表現を凝らして制作した作品が、工房や店頭に並ぶようにもなりました。「これを作ってくれる人に依頼する」時代から、「この人の作品がほしい」と選ばれる時代へ。そうした中で切磋琢磨し彫刻技術を生かした多様な商品が生まれ、住宅欄間自体は需要が減少しても、その技術は失われず深化を続けているようにも思います。
井波彫刻とは① 井波彫刻の原点・瑞泉寺と祈りのかたち
富山県南砺市井波で受け継がれてきた井波彫刻。 精緻、繊細、そして時としてダイナミック。井波彫刻を代表する「欄間」は、わずか数センチの厚みの板から削り出されたとは思えない立体感と躍動感があります。 現在は国指定の伝統的工芸品となっており、井波の町は「木彫刻美術館・井波」として日本遺産に認定されています。文化庁の日本遺産にも登録されています。町のメインストリートである八日町通りを歩けば、通りには工房が立ち並び、ノミを打つ音が聞こえ、彫刻師たちの巧みな技を垣間見ることができます。 「型」ではなく「技術」 では、井波彫刻とはどのような彫刻なのでしょうか。 ある大ベテラン彫刻師の方は、井波彫刻を「技術である」と表現しました。「これを作らないといけない、こうでなくてはいけない」というような決まった「型」があるものではなく、彫刻技術そのものが井波彫刻の本質だと言います。 伝統工芸というと、食器や籠、布地など、日用品として決まった「型」を職人が量産する「職人仕事」のイメージが一般的です。日用に供される雑貨類として、機能美を携え、ハレの日のための美しさも追及されてきました。 経済産業省のサイトでも、伝統工芸とは「地域で受け継がれてきた伝統の技と材料を使い、職人が手仕事でつくる生活用品」と定義されています。※出典:https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/nichiyo-densan/index.html しかし、井波彫刻で従来主に作られてきたものは、社寺の装飾彫刻や、住宅用の欄間、衝立などの建築彫刻でした。彫刻と聞くと美術館等で見る立像を想像しがちですが、井波彫刻はこうした建築装飾を中心に発展しました。これは、そのルーツが寺院建築の装飾彫刻にあったという点が大きいのではないでしょうか。 瑞泉寺と人々の祈り なぜ、これほどまでに精緻で繊細な彫刻技術がこの地に生まれたのか。その根底には、人々の日々の篤い信仰心と祈りがあるように思います。 井波彫刻の始まりは、井波のランドマークである名刹・瑞泉寺にあります。 瑞泉寺は1390年に、京都・本願寺から来た綽如上人によって開かれた浄土真宗の寺院です。越中、浄土真宗という背景は、一向一揆を思い浮かべるように、まさしく瑞泉寺も時代の流れの中で一向宗の重要拠点となった寺院でした。(瑞泉寺自体の歴史は別項をご参照ください) 瑞泉寺は度々火災に見舞われ、そのたびに井波の人々によって再建されてきました。 井波彫刻の起こりとなる契機は、1762年の町からの出火による二度目の火災でした。 その再建の際、京都の東本願寺から派遣された彫刻師、前川三四郎が、番匠屋七左衛門ら井波の大工に彫り物を伝えたのが井波彫刻のはじまりとされています。 瑞泉寺山門正面の唐狭間(からさま)『雲水一疋龍』は前川三四郎作、勅使門の『獅子の子落とし』は番匠屋七左衛門作と伝えられ、これらは装飾彫刻の傑作として知られています。 前川三四郎の技術伝承はもちろん重要ですが、それ以前から瑞泉寺の再建で培われてきた井波大工の確かな技術があったからこそ、今日の井波彫刻の基礎ができたといえるでしょう。 技の粋を究めた美 美しい浄土を現世に表すかのように、彩色を施さず技の粋を究めた瑞泉寺の彫刻の数々は、素木であるにもかかわらず、色彩の概念を超える鮮やかさ。それは、当時の井波の職人ひとりひとりの祈りの結晶のようにも感じられます。 このように、浄土を再現するかの如く精緻に作り上げられた装飾彫刻の技術は、やがて加賀藩の目にとまり、全国に知られるところとなり、今日にいたる井波彫刻が形作られていきました。 ある彫刻師の方に、「井波らしさ」について尋ねたことがあります。 返ってきたのは、「自分達のまちは自分達で守る、自分達でつくる。そういう気概が井波らしさだと思う。」という言葉でした。 当時の人たちの想いに静かに想像を巡らせてみると、浄土の教えを心のよりどころとし、動乱の時代を互いに支え合い生きてきた人々の祈りの場として、瑞泉寺は焼き払われようとも再建したいシンボル、かけがえのない場だったのでしょう。 太子伝会や報恩講などの寺の行事が、当時の人々にとって集い、心を通わせる大切な場でもあったように、そうした集いの中で育まれた精神風土が、この地には今も根付いているように思うのです。
井波彫刻とは① 井波彫刻の原点・瑞泉寺と祈りのかたち
富山県南砺市井波で受け継がれてきた井波彫刻。 精緻、繊細、そして時としてダイナミック。井波彫刻を代表する「欄間」は、わずか数センチの厚みの板から削り出されたとは思えない立体感と躍動感があります。 現在は国指定の伝統的工芸品となっており、井波の町は「木彫刻美術館・井波」として日本遺産に認定されています。文化庁の日本遺産にも登録されています。町のメインストリートである八日町通りを歩けば、通りには工房が立ち並び、ノミを打つ音が聞こえ、彫刻師たちの巧みな技を垣間見ることができます。 「型」ではなく「技術」 では、井波彫刻とはどのような彫刻なのでしょうか。 ある大ベテラン彫刻師の方は、井波彫刻を「技術である」と表現しました。「これを作らないといけない、こうでなくてはいけない」というような決まった「型」があるものではなく、彫刻技術そのものが井波彫刻の本質だと言います。 伝統工芸というと、食器や籠、布地など、日用品として決まった「型」を職人が量産する「職人仕事」のイメージが一般的です。日用に供される雑貨類として、機能美を携え、ハレの日のための美しさも追及されてきました。 経済産業省のサイトでも、伝統工芸とは「地域で受け継がれてきた伝統の技と材料を使い、職人が手仕事でつくる生活用品」と定義されています。※出典:https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/nichiyo-densan/index.html しかし、井波彫刻で従来主に作られてきたものは、社寺の装飾彫刻や、住宅用の欄間、衝立などの建築彫刻でした。彫刻と聞くと美術館等で見る立像を想像しがちですが、井波彫刻はこうした建築装飾を中心に発展しました。これは、そのルーツが寺院建築の装飾彫刻にあったという点が大きいのではないでしょうか。 瑞泉寺と人々の祈り なぜ、これほどまでに精緻で繊細な彫刻技術がこの地に生まれたのか。その根底には、人々の日々の篤い信仰心と祈りがあるように思います。 井波彫刻の始まりは、井波のランドマークである名刹・瑞泉寺にあります。 瑞泉寺は1390年に、京都・本願寺から来た綽如上人によって開かれた浄土真宗の寺院です。越中、浄土真宗という背景は、一向一揆を思い浮かべるように、まさしく瑞泉寺も時代の流れの中で一向宗の重要拠点となった寺院でした。(瑞泉寺自体の歴史は別項をご参照ください) 瑞泉寺は度々火災に見舞われ、そのたびに井波の人々によって再建されてきました。 井波彫刻の起こりとなる契機は、1762年の町からの出火による二度目の火災でした。 その再建の際、京都の東本願寺から派遣された彫刻師、前川三四郎が、番匠屋七左衛門ら井波の大工に彫り物を伝えたのが井波彫刻のはじまりとされています。 瑞泉寺山門正面の唐狭間(からさま)『雲水一疋龍』は前川三四郎作、勅使門の『獅子の子落とし』は番匠屋七左衛門作と伝えられ、これらは装飾彫刻の傑作として知られています。 前川三四郎の技術伝承はもちろん重要ですが、それ以前から瑞泉寺の再建で培われてきた井波大工の確かな技術があったからこそ、今日の井波彫刻の基礎ができたといえるでしょう。 技の粋を究めた美 美しい浄土を現世に表すかのように、彩色を施さず技の粋を究めた瑞泉寺の彫刻の数々は、素木であるにもかかわらず、色彩の概念を超える鮮やかさ。それは、当時の井波の職人ひとりひとりの祈りの結晶のようにも感じられます。 このように、浄土を再現するかの如く精緻に作り上げられた装飾彫刻の技術は、やがて加賀藩の目にとまり、全国に知られるところとなり、今日にいたる井波彫刻が形作られていきました。 ある彫刻師の方に、「井波らしさ」について尋ねたことがあります。 返ってきたのは、「自分達のまちは自分達で守る、自分達でつくる。そういう気概が井波らしさだと思う。」という言葉でした。 当時の人たちの想いに静かに想像を巡らせてみると、浄土の教えを心のよりどころとし、動乱の時代を互いに支え合い生きてきた人々の祈りの場として、瑞泉寺は焼き払われようとも再建したいシンボル、かけがえのない場だったのでしょう。 太子伝会や報恩講などの寺の行事が、当時の人々にとって集い、心を通わせる大切な場でもあったように、そうした集いの中で育まれた精神風土が、この地には今も根付いているように思うのです。